ひた向き宮原、大舞台へ 祖父の一言でフィギュア再開

2018年2月21日

女子SPに向け公式練習で調整する宮原知子選手=江陵で(田中久雄撮影)

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幼年時「真央ちゃんみたいに」

 【江陵(カンヌン)=原田遼】平昌(ピョンチャン)冬季五輪で21日、フィギュアスケート女子ショートプログラムに挑む宮原知子選手(19)。幼いころ、一度は外れかけたスケートの道に再び戻したのは、テレビで浅田真央さんを見た祖父の一言だった。引っ込み思案だった少女はひた向きな練習で成長を遂げ、大けがも乗り越えて表彰台を目指す。

 医師の両親の仕事で、実家がある京都から米ヒューストンに移り住んだ4歳の夏。商店街に併設されているリンクで初めてスケートを滑り、いきなり一足1万円の靴を母裕子(やすこ)さん(48)にねだった。

 娘の珍しいおねだりを聞き入れ、裕子さんは靴を買い与えて教室に入れた。だが言葉の壁もあり、他の参加者と交じろうとしない。

 「中央でグループをつくってレッスンをしている時も、1人で周りをぐるぐるしていた」と裕子さん。「これはだめだ」と2カ月で教室をやめさせた。

 切れかけた糸をつなぎ留めたのは、日本で騒がれだした「天才少女」だった。京都で行われた全日本選手権で、小学6年だった浅田真央さんがトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)に成功。それをテレビで見た祖父の明さん(82)が、「何で簡単にやめさせたんだ。続ければ真央ちゃんみたいになれたかもしれないのに」と電話で怒った。

 宮原選手はその一言でスケートを再開した。グループ参加は諦め、思い切ってマンツーマンで先生をつけた。裕子さんは毎日、午後7時に帰宅。夕食後、娘は「行く」とつぶやき、午後10時まで営業しているリンクに向かった。

 小学1年で帰国。京都から片道2時間かけて関西各地のリンクに通い、祖父母が作る弁当を食べながら4時間の練習を続けた。当時から指導する浜田美栄コーチ(58)は「初めて会ったときは、ホントに鈍くさくて。五輪に行ける選手になるとは思っていなかった。ただ、ひた向きに練習していた」と振り返る。

 シニア大会に参戦してからはバレエ、フラメンコ、演劇鑑賞、英語、パントマイム、ボイストレーニング、読書−。表現力の足しになると思えば、積極的に挑戦した。

 「何でも本気でやる」。裕子さんは娘のことをそう語る。小さな体でこつこつと階段を上り、夢の舞台にたどり着いた。

中日新聞 東京新聞

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