村岡「金」1号 父と二人三脚 悲願の真ん中

2018年3月15日

2月に行われた大会の応援に来た父秀樹さん(左)と話す村岡選手=長野県の菅平高原スキー場で

写真

 【平昌(ピョンチャン)=共同】平昌冬季パラリンピック第六日の十四日、アルペンスキーは二回の合計タイムで競う大回転が行われ、女子座位で村岡桃佳(ももか)(21)=早稲田大=が金メダルを獲得した。今大会日本勢初の「金」。ノルディックスキー距離の男子スプリント・クラシカル立位では新田佳浩(37)=日立ソリューションズ=が銀メダル。日本選手団のメダルはこれで七個となり、前回ソチ大会の六を上回った。

 村岡は日本選手としては冬季史上最年少で頂点に立った。今大会四個目のメダルで、冬季の日本選手一大会最多記録に並び、日本アルペン勢としては最多となった。十八日の回転にも出場予定で、全五種目でのメダルを目指す。日本女子の金メダリストは二〇〇六年トリノ大会の大日方(おびなた)邦子、小林深雪以来で五人目。

   ◇

 父と娘の親子の二人三脚が、今大会日本勢初の金メダルにつながった。平昌(ピョンチャン)パラリンピックで四つ目のメダルを手にした村岡桃佳(ももか)選手(21)。これまでの3種目は銀、銅、銅。悔しさをバネに攻めの姿勢を貫き、頂点に立った若きホープを家族や恩師も祝福した。 (平昌・神谷円香、田井勇輝)

 「最初は父に」。金メダルをかけてあげたい相手は、自分をこの世界に導いてくれた父秀樹さん(48)だった。大会序盤は現地で応援した秀樹さんだが、この日は仕事で日本に戻っており、インターネット中継で見守った。「信じられない。大粒の涙があふれました」

 埼玉県深谷市出身の村岡選手は四歳の時、突然、病気で両脚が動かなくなった。車いすが必要となり、娘がふさぎがちになっていることに気付いた秀樹さん。「笑顔になってほしい」と、村岡選手が小学二年の時、車いすスポーツの体験会に誘ってみた。

 自らも車いすに乗り、マラソンやテニス、スキーなどに挑戦した。移動する車中は、作戦会議の時間。「どうやったら、うまくなるか」。親子の二人三脚が始まった。

 日本選手団の旗手を務めるまでに成長した平昌大会。村岡選手は初戦の「銀」でほっとした。二つの「銅」は悔しかった。「どうしても『金』が欲しくて、勝つか転ぶか、攻める滑りをしようと思った」

 娘がメダルを取るたびに目が真っ赤になった秀樹さん。残すはあと一種目。「最後まで泣かせてほしい」と期待を込めた。

◆初のパラ選手受け入れに尽力 早大スキー部

 村岡桃佳選手は障害者として初めて早稲田大スキー部に入った。当時の監督倉田秀道さん(56)は、寮のバリアフリー化など受け入れに奔走した。

 高校二年で初出場した二〇一四年ソチ大会後の三月、父秀樹さんが倉田さんに電話で娘の入部意欲を伝えた。「大学の体育会はパラ選手を見ていない。驚いた」と倉田さん。村岡選手を寮などに案内した上で「受け入れ態勢がない」と断った。

 だが五月、本人から再び熱意を聞く。「たまたまパラ選手なだけだ」と気付き、腹をくくった。一緒に滑った部員は「しっかり練習していますよ」と話すなど異論はなかった。

 部員が面接試験の練習をサポートし、パラ選手として初めて、実績ある選手が受験できるトップアスリート入試に合格した。

 倉田さんは寮の改修に駆け回った。大学との折衝で得た予算など約六百万円でスロープをつくりトイレの手すりの高さを調整した。練習では上半身の筋肉強化に取り組んで滑りが安定し、ワールドカップで表彰台の常連になった。

 一六年度に監督を退いた倉田さん。「健常者も障害者も、スキーが好きな気持ちは一緒」。まなざしは温かかった。 (共同)

 <村岡 桃佳(むらおか・ももか、早大=アルペンスキー女子大回転座位)> 14年ソチ大会に続く出場で、今大会は滑降2位、スーパー大回転とスーパー複合で3位。17年世界選手権は銅メダル3個。埼玉・正智深谷高出。150センチ、37キロ。21歳。埼玉県出身。 (共同)

中日新聞 東京新聞

※ご利用のブラウザのバージョンが古い場合、ページ等が正常に表示されない場合がございます。

Search | 検索