7月11日

<ピッチの余韻 藤島大>醜悪ダイブに別れを

 さてクロアチアとイングランド、どちらが笑うのか。いよいよ進出国の定まるファイナル、見たくはないのに見てみたい光景がある。

 ダイブ。シミュレーションとも呼ぶ。演技で芝の上に吹っ飛び、のたうち回り、反則をかっさらう行為である。

 醜悪だ。サッカーの価値をそいでしまう。公式には絶対に目にしたくない。

 でも白状すると、誰かしでかしてくれないかと願う気持ちもどこかにある。

 大会最良であるはずの主審に芝居を見抜かれ、観客の大ブーイングにさらされて、広く恥を報じられ、膨大な数の携帯端末から「やつは子どもか」と発信される。

 最高の祭典の決勝において地球規模の軽蔑が当人に注げば、こんなことは割に合わぬと、サッカーという社会が変わる契機になるかもしれない。たとえて書くなら「最後のダイブ」を見たいのだ。

 傷心の敗退、ブラジルのネイマールは、何も自分の足に触れていないのに世界が終わるみたいな表情を浮かべる。性格のせいだけではない。それは環境の産物でもある。

 ダイブをずる賢さの枠にとどめて、深い悪徳とは見なさなかった過去の時間が、あんなに繊細にボールを扱う名手を、大泣きと大笑いしか演じられない下手な役者に育てたのだ。

 ラグビー選手がすぐ痛がらないのは、丈夫で人格高潔だからではない。ラグビーという社会の環境が自然にそうさせる。ネイマールが弱虫なわけでもない。これから「ダイブ撲滅」の機運がますます高まれば、本当に削られても、いまよりは平然としているだろう。 (スポーツライター)

中日新聞 東京新聞

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