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能登半島地震特集あの日から2年−3・25能登半島地震(9)
仮設を出て、新生活へ『亡父の分も生きる』仮設住宅の居間に大窪彦三郎さん(39)は正座し、棋譜を見ながら将棋盤に駒を並べる。趣味の時間、最も心が落ち着く。その姿を傍らの遺影が見つめる。父昭七さん。仮設住宅で孤独死した。七十五歳だった。 大窪さんと母智江さん(68)、昭七さんが暮らしていた石川県輪島市河井町の借家は、二年前の能登半島地震で大きく壊れ、住めなくなった。大窪さんと智江さんは二〇〇七年四月末、同市宅田町の仮設住宅に入居した。 しかし、昭七さんは同じ仮設住宅の別棟へ。「死ぬまで仕事をしたい」と再起を誓っていたからだった。昭七さんは、輪島塗の蒔絵(まきえ)の親方を務めた職人。作業場所が欲しかった。一人暮らしを始めると、震える手で必死に筆を握り、だるまの絵の下書きを描いた。 大窪さんは時折、昭七さんを訪ねた。かつて手掛けた輪島塗の写真や家のチラシを眺める楽しそうな顔。帰る時には「もう行くんか」と寂しそうな表情を浮かべていた。 そして昨年一月、昭七さんは亡くなった。弁当配達の女性が夕方、自宅で倒れている昭七さんを見つけ、智江さんから聞いた大窪さんが約一時間後に駆けつけた。 その日の朝、「寝られない」と相談を受けたばかりだった。安らかに眠っているように見えた。「まさか…」。涙があふれた。 だるまの絵は完成していなかった。大窪さんは「優しいおやじだった。もっと生きたかったろう。もっと親孝行すればよかった」と悔やむ。 今月二十六日、大窪さんは智江さんとともに市内の災害公営住宅に引っ越す。「仮設より住み心地が良さそうだ」と新生活に期待を膨らます。しかし、収入は二人の旅館のパート代と智江さんの年金だけ。「これからは敷金や家賃がかかる。生活の面が心配だ」と不安もよぎる。 そんな時は「気持ちだけでもしっかり持って、おやじの分も生きる」と気を取り直す。 (七尾・増井のぞみ)=おわり
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