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能登半島地震特集あの日から2年−3・25能登半島地震(3)
球春 故郷に再び元エース、苦境バネに山本健太さん(19)は建設機械大手「コマツ」の粟津工場(石川県小松市)に勤務する。工場は折からの不況で減産に入った。期間社員の削減が打ち出される中、正社員の山本さんも二月の平日に四日間の休みを取った。三月も状況は変わっていない。 「職場の先輩から景気には波があると聞かされている」と山本さんは意に介さない。苦境の後に、得難い経験があると知っているから。思い出すのは二〇〇七年七月十四日のことだ。 山本さんは石川県立野球場(金沢市)のマウンドに立っていた。甲子園への県予選一回戦。それも大会の初戦だった。多くの新聞、テレビが山本さんのチーム「門前高校野球部」に注目した。四カ月前に発生した能登半島地震を乗り越えて、出場したからだった。 山本さんも被災者だった。同県輪島市門前町道下(とうげ)の自宅は大規模半壊し、家族五人で仮設住宅暮らしをしていた。環境に慣れず、練習を終えて帰宅しても疲れはとれなかった。二十二人の部員のうち、三人が同じ境遇にいた。 そして、エースとして最後の夏を迎えた。「注目されてうれしかった。重圧は感じていなかった」。言葉通り一回戦の勝利に貢献し、二回戦でも強豪に善戦した。「テレビで見たよ」「勝っておめでとう」と、仮設で見知らぬ人から声をかけられた。「この二年間で一番うれしかった」と、地震の後に思わぬ喜びを感じた。 野球への思いは今も強い。入社とともに丸刈りにした髪は、「この方が楽でいい」と高校球児のように短いまま。職場の先輩に誘われ、軟式野球チームに入った。愛車の軽乗用車にはグラブを積む。練習が始まる春が待ち遠しい。 地元・門前の人を勇気づけることができた当時のメンバーで、もう一度野球をしたい。そう願う。「地震もあったし、不況もあるけど何とも思っとらん。人生いろいろなことがある方が楽しいし、刺激になる」。元球児は苦境を力にし、野球に打ち込んでいた時のまま生きている。 (穴水・島崎勝弘)
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