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能登半島地震特集

あの日から2年−3・25能登半島地震(1)

 二〇〇七年三月二十五日に発生した能登半島地震から間もなく二年になる。石川県内で観測史上最大の震度6強を記録し、輪島市門前町を中心に能登地方などで一人が死亡、三百五十人以上が重軽傷を負った。この地震では膨大な数の住宅が壊れ、高齢者の多い地域の生活を一変させた。当時、窮状を訴えた人々の二年後を追う。

「母屋に住めなくなった時のために」と納屋に畳を敷き、着替えなどを置いている的場きりさん(右)と夫の一男さん=石川県輪島市門前町猿橋で

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『福祉』なかった避難所

夫は認知症負担重く

 三月初め、まだ雪がちらつく山あいの輪島市門前町猿橋。的場きりさん(75)宅には、かつて牛を飼っていた薄暗い納屋の一角に四枚の畳が敷かれていた。「また地震がきたら、夫としばらく生活できるようにと敷きました」

 能登半島地震でつらい思いをした。自宅脇の納屋は、今でも避難所にしようと残している。畳の上には数日分の服や紙おむつ。近くの畑の小屋にも布団を置き、逃げ込めるようにしてある。

   ◇  ◇

 「お願いします」。的場さんは土下座して声を上げた。その前に、内閣府の平沢勝栄副大臣(当時)が見下ろすように立っていた。地震発生から三日目の三月二十七日。身を寄せていた避難所でのことだ。

 家が壊れ、認知症を患う夫の一男さん(76)とともに避難した。一男さんは目を離すと歩きだし、人の足を踏むなどした。周囲の被災者に迷惑を掛けまいと、夜も眠らずに様子を見た。疲労はピークに達していた。

 激励に訪れた平沢副大臣の姿を見ると、思わず体が動いた。目から涙が流れていた。周囲が力を尽くしたこともあり、四月に入ると個室に移れた。

 対応が遅れたのは、認知症の高齢者ら手助けが必要な人のための福祉避難所がなかったからだった。

   ◇  ◇

 「二度とあんな思いはしたくない」と的場さんは言う。輪島市は地震後、民間の老人ホームなどと協定を結び、約百人分の福祉避難所を確保した。そう聞いても行政への不信感は消えていない。

 一男さんの状態はこのところ、さらに悪化した。支えてきた的場さんも「このままでは私が持たない」と感じた。週一回のデイサービスに加え、今月から三泊四日のショートステイも利用することにした。

 半壊世帯に対する県と市からの支援金は五十万円。夫婦が生活する母屋は結局、直しきれなかった。残った部分には板や新聞紙を当てがい、冬の間はすき間風に耐えた。それでも、的場さんは二十歳のころ嫁いだこの地に「最後まで残る」と決めている。

 地震が起きた春から数えて三度目の春がやってくる。 (報道部・福田真悟)

 ◆福祉避難所◆ 一般の避難所での生活が難しい高齢者や障害者らが避難生活をする施設。国の「災害時要援護者の避難支援ガイドライン」は自治体に、民間の福祉施設と協定を結ぶなどして災害が来る前に用意しておくよう求めている。能登半島地震の発生当時、輪島市は協定を結んでいなかった。

 

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