トップ > 北陸中日新聞から > 能登半島地震特集 > 記事一覧 > 7月の記事一覧 > 記事
能登半島地震特集二度目の夏−能登の被災地から(2) 守るもの 故郷に
つらい別れ…再出発や緑に囲まれた山あいの土地。田んぼがあり、川が流れる。当たり前のようにあった暮らしと別れないといけない。石川県志賀町鵜野屋の仮設住宅で、上田石太郎さん(72)は故郷を離れる決断をした。 上田さんは九人きょうだいの大家族で育った。ご飯は一日三升炊いた。お盆になると家に三十人が寝泊まりした。十畳と十二畳半、十五畳の部屋は笑い声に満ちていた。 今は仮設に妻とめ子さん(67)と二人暮らし。ご飯は一日、二合か三合。「おもちゃみたいなもん」と、とめ子さんは言う。自分たちが住めるだけ直して戻るつもりだった家は、重なる余震で土台まで崩れていることが分かり、帰ることをあきらめた。 車で十分ほど行った町に家を借りることにした。同じ旧富来町ではあっても、意識の中に「街へ出る」のは覚悟がいる決断だった。 家を離れること。それは、親しい友と離れること。とめ子さんにとって、仲良しの松田和子さん(61)との別れがつらい。好きなことを言い合える。仮設住宅は隣同士。台所は壁一枚で接し、まな板をたたく包丁の音が聞こえる。今ごろ何しているかな。そんなことも通じ合う。 十分の距離とはいえ、やがて来る別れの日を思うとき、とめ子さんも和子さんも互いに涙声になる。 家の近くにあった稗造(ひえづくり)小学校は五年前に閉校し、仮設住宅は小学校の運動場に建つ。子どもの声。チャイムの音。みんななくなって、今、自分たちが去る日が来ようとは…。 石太郎さんは毎日一回は家へ行く。「ちんちゃても(小さくても)建てておった方が良かったかと思ったりして。なかなか思い切られん」。それでも、最後には「この年になって言うのも何やれど、再出発や」と自らに言い聞かせる。 畑や田んぼは変わらずにある。お寺の世話もする。守るものはずっと故郷にある。 (志賀通信部・小塚泉)
|