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三重

<切なる願い> (3)9条と安全保障

2017年10月19日 紙面から

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 「憲法九条があったから平和な日本がある」。旧満州(中国東北部)で終戦を迎えた渡辺トミさん(81)=鈴鹿市西玉垣町=は、そう言葉に力を込めた。

 食糧難や人口増の解消、国防上の理由で満州へ入植した「満蒙(まんもう)開拓団」。渡辺さんも家族や親族と海を渡った。終戦を知ったのは、避難先の飛行機の格納庫の中だった。ソ連軍におびえながら暮らす日々が始まった。

 満州で生まれた妹はまだ八カ月。母の乳は出ず、渡辺さんは焼いたジャガイモをかんでは妹の口に運んだ。妹は次第に細く小さくなり、終戦から一週間後に息を引き取った。

 翌一九四六年八月に帰国するまでの間に、別の妹=当時(3つ)、母=当時(38)=も病死した。満足な食事も治療も受けられず、弱っていく家族を見るのは胸が張り裂けそうだった。

 「ひもじい思いをする必要はなかった。まして死ぬ必要なんて。戦争さえなければ」。思い出すと涙があふれてくる。

    ◇

 空襲警報が鳴った夜は蒸し暑かった。四五年七月二十八日の津市新東町塔世。防空壕(ごう)からはい出た少年は、ぱあっと明るくなる空を見て危険を悟った。自宅から百メートルほど離れた路上に焼夷(しょうい)弾が落ちた。消火に手を貸していると、自宅からも火の手が上がった。布団をかぶり海に向かって駆けだした。「生きた心地がしなかった」

 太平洋戦争末期、津市は七回の空襲に見舞われた。死者は二千五百人を超えた。同日の空襲は市街地のほとんどを焼き払い、五百人以上が犠牲となった。

 かつての少年、当時と同じ場所に住む桜井幸治さん(85)は、戦争のおそろしさが体に染み付いている。「いつ死んでもおかしくない状況だった。絶対に忘れられない」

 衆院選では、各候補が改憲や安保法制の是非で主張をぶつけ合う。それを横目に桜井さんは、戦後復興をけん引した与党の政治家たちを評価する一方、ここ数年の政府の強引さが気にかかるという。特に安保法制や「共謀罪」の強行採決。「『戦争に巻き込まれるのではないか』という国民の不安に対する説明はないままだ」

 戦争体験者が「平和な日本が続いてほしい」と願う中、二十二日の投開票日まで有権者の判断も問われている。過ちを繰り返さないために。

 (鈴鹿雄大)

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