紙面から(パラリンピック)

亡き夫を支えに完走 近藤選手

女子マラソンで力走する近藤寛子選手(左)=18日、リオデジャネイロで(田中久雄撮影)

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 リオデジャネイロは約束の舞台だった。近藤寛子選手(49)=滋賀県栗東市、滋賀銀行=は二年前に急逝した夫秀彦さん=当時(49)=との誓いを守り、パラリンピックにマラソン選手(視覚障害)として出場した。五位でゴールし、直後に倒れ、医務室へ運び込まれるほど力を出し切った。「きつかったけど、夫が背中を押してくれた」

 十八日、リオのリゾート地コパカバーナビーチ周辺に設けられたコース。南米の強烈な日差しが体力をじわじわと奪う。近藤選手は苦しくなる後半で勝負をかけ、七位から順位を上げた。

 十六年前に網膜色素変性症を発症。視野が狭まっていく中、うつ状態になった。障害者手帳とともに配られた冊子に陸上の紹介があり、走ることが好きだった子どものころを思い出した。滋賀県を拠点にする視覚障害者のランニングクラブを訪ねてみた。

 短いロープを握り合って誘導してもらう伴走者と一緒だったら、目が悪くなる前のように思いっきり走れた。明るさを取り戻していき、視覚障害者の陸上大会にも出るようになった。

 リオを目指していた二年前の九月二十八日、国内の大会に出るため、家を空けていた。

 長男明男さん(24)と一緒に会場から帰る途中、長女ひまりさん(16)から「お父さんが倒れた」と携帯電話のメールに連絡があった。家に着いた時は既に亡くなっていた。「倒れた時、私がそばにいれば」。陸上をやめようと思った。

 「もう走れんわ」。毎日泣き続け、家事も手に付かず落ち込んでいた近藤選手に、明男さんが一喝した。「お父さんとリオへ行く約束したんちゃうか」。秀彦さんが競技に熱中する近藤選手を支え、「家族をリオへ連れて行って」と頼んでいたことを思い出した。

 リオには秀彦さんの写真を持ってきた。選手村の自室で毎日手を合わせ、「見守ってね」とお願いした。

 「ゴールまで気持ちが切れず、精いっぱい頑張れた。納得のいく結果だった」。晴れ晴れとした表情で語った近藤選手。帰国したら、改めて秀彦さんのお墓に報告する。「やったよ」と。

 (伊藤隆平)

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