紙面から(パラリンピック)

走り幅跳び・山本が銀 パラリンピック

陸上男子走り幅跳び決勝銀メダルを獲得した4回目の跳躍をする山本篤=17日、リオデジャネイロで(田中久雄撮影)

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 【リオデジャネイロ=本社取材団】リオデジャネイロ・パラリンピック第十一日の十七日は陸上男子走り幅跳び(切断などT42)が行われ、昨年まで世界選手権を二連覇した山本篤(34)=静岡県掛川市出身、スズキ浜松AC=が6メートル62で銀メダルを獲得した。

山本篤

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 日本のメダルは銀九、銅十一のトータル二十個になった。

 競泳は男子200メートル個人メドレー(知的障害)の中島啓智(17)=中山学園高=と津川拓也(24)=ANAウイングフェローズ・ヴイ王子、女子100メートル自由形(運動機能障害S5)で、競泳日本チーム最年長の成田真由美(46)=横浜サクラ=が予選を通過した。

 第十日の十六日、競泳は男子200メートル個人メドレー(視覚障害SM11)の木村敬一(26)=滋賀県栗東市出身、東京ガス=が2分28秒76で四位だった。木村は五種目に出場した今大会で銀二、銅二と計四個のメダルを獲得した。

 車いすラグビーの日本は、一次リーグB組最終戦で強豪の米国に56−57で惜敗し、二勝一敗の同組二位。

 初のメダルが懸かる準決勝(開始は十七日午後四時=日本時間十八日午前四時)はA組一位のオーストラリアと当たる。

◆ハートと探究心 義足輝く

 期待とプレッシャーを背負い自己ベストに届く大ジャンプを繰り出した。今大会日本勢初の「金」には届かなかったが、殊勲の銀メダル。競技場で国旗を背に掲げ、笑顔を見せた。

 陸上走り幅跳びの山本篤は高校二年の時にオートバイで事故に遭い、左膝の少し上からを切断。卒業後は日本聴能言語福祉学院義肢装具学科(名古屋市中村区)に進んだ。「最初は伏し目がちで、将来に不安を抱いてるように見えた」。教員の中川三吉(みよし)さん(48)は振り返る。

 バレーボール選手として垂直跳び一メートルのジャンプ力があり、スポーツ万能だった山本。授業を受け、ばねのように弾力がある陸上用義足の存在を知った。どう力をかければ、推進力や跳躍力を得られるか、理論も学んだ。公園や陸上競技場で走ったり、跳んだりする練習を始め、表情が明るくなっていったという。

 当初は義足製作所への就職を考えていたが、三年間の勉強を終えるころには、パラリンピアンを目指せる練習設備が整った大阪体育大への進学を選んでいた。

 「雨の中、こけるまで全力疾走していた」。同大名誉教授の伊藤章さん(68)の記憶は鮮明だ。当時、体育大に障害者が入学するのは一般的ではなかった。実技の授業についていけない恐れがあったからだ。実技能力を見極める試験の100メートル走を、体育学部教授だった伊藤さんが担当した。

 全天候型のトラックは雨でぬれていた。山本は80メートルほどまでは順調。伊藤さんが「いい走り」と思った直後、勢いよく転び、肩を脱臼して医務室に運ばれた。

 「この先もっと激しいけがをするかもしれない。懲りたか?」と尋ねると、「全然平気です」と山本。伊藤さんは「義足の使い方がまだ甘い」と分析し、意欲に将来性を感じた。

 予感は的中した。二〇〇八年の北京パラリンピックの走り幅跳びで銀。日本人の義足の陸上アスリートとして初めてメダルを手にした。昨年の世界選手権で優勝し、今年五月には当時の世界新記録もマークした。

 優れた身体能力に加え、専門学校で学んだ義足の知識、前へ進もうとする強いハート。これらを相乗してリオの大舞台で結果を出した。それでも「悔しい。金以外は負け」。

 脚を切断する前、はっきりとした夢がなかった山本は「けがをしたから人生がより輝いた」とよく話す。パラリンピアンを目指したから、挑戦こそが人生となった。肉体的なピークを迎え「集大成」と位置付けた大会は終わったが、「まだ成長できる。世界記録を更新したい」。意欲は衰えない。

 (伊藤隆平)

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