紙面から(パラリンピック)

走って開いた社会の扉 療育で陸上開始・山本萌選手

陸上女子1500メートル決勝力走する山本萌恵子選手(中)=16日、リオデジャネイロで(共同)

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 「また出たい」。リオデジャネイロ・パラリンピック陸上女子1500メートル(知的障害)に出場した山本萌恵子選手(18)=愛知県岡崎市、日本知的障がい者陸上競技連盟=はレース後、大きな声で言った。社会生活ができるようにするトレーニングの一環で始めたランニングの成果で、他人と関わることに慣れ、リオへとつながった。家族に希望をもたらした。

 十六日、約五万人の観客席が埋まった競技場で走りきった。走者七人中、実力通り最下位ではあったが、「(歓声が)大きかった。頑張りました」と答えた。

 小学二年の時に自閉症と診断された。六年生になるころには学校だけでなく、家でも話さなくなった。中学進学後、障害児の療育の専門家から「毎朝五時半に起きて三キロ走らせて。親の言うことを聞く訓練になる」と母忍さん(56)は助言された。泣いて嫌がる山本選手を毎日外に連れ出し、自転車で横を走った。

 山本選手はランニングに慣れると、中学校の陸上部と駅伝部に入った。「苦手なことはいっぱいあったけれど、走ることには自信がつき、好きになっていったのだと思う」と忍さん。岡崎市内の県立みあい特別支援学校の高等部ではスポーツ部に入り、知的障害者の陸上大会に出るようになった。

 昨年十月にカタールのドーハで開かれた世界選手権に出場した際、「頑張って走りました」と話す山本選手の姿がテレビに映し出された。「インタビューでしゃべれている」。同居し、山本選手を見守り続けている祖母五十鈴(いすず)さん(84)も含め家族で喜んだ。

 忍さんは次第に「700メートル以降でスピードが落ちる」「肩に力が入っている。もっと滑らかに腕を振らなくては」と、まるでコーチのように山本選手にアドバイスするようになっていった。

 リオを出発する少し前、山本選手は自宅のテレビで、相模原市の障害者施設殺傷事件のニュースを黙って見つめていた。「何か思うところがあったのでしょう。容疑者は、障害者がいなくなればいいと思い、彼の考え方に賛同する人もいると聞く。どうしてそういう思いになってしまうのか」と忍さんは悲しんだ。

 山本選手は就労継続支援事業所で弁当作りの仕事をしている。陸上の練習のため、本来より一時間早い午後三時に帰らせてもらっている。パラリンピック出場が決まってからは、職員からも「頑張って」と励ましを受ける。

 忍さんらは、山本選手に「社会で生きていく力を身につけてほしい」と願っている。彼女が走る道は、その実現につながっている。

 (伊藤隆平)

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