紙面から(パラリンピック)

「もっと羽ばたける」 女子走り幅跳び・中西選手 

陸上女子走り幅跳び中西麻耶選手の6回目の跳躍=9日、リオデジャネイロで(共同)

写真

 「自分の生きてきた道に自信を持てるようになった」。陸上女子走り幅跳び(T44クラス)で4位となった中西麻耶選手(31)。メダルには一歩届かなかったが、精神的に追い詰められ不眠症の状態で臨んだ前回ロンドン大会とは生まれ変わっていた。

 六回目の最後のジャンプ。四年前のロンドン大会の自身の記録を60センチ以上超える5メートル42。「二〇二〇年の東京大会に向けて大きな手応えを残せた」。満面の笑みこそなかったが、口調に充実感がにじんだ。

 二十一歳だった〇六年、勤務先の工事現場で右脚が鋼材の下敷きになり、膝の下から切断した。高校のころ打ち込み、卒業後も国体を目指すほど生きがいだったソフトテニスでコートを駆け回ることはできなくなった。

 代わりに始めた障害者陸上の短距離走ですぐ日本記録保持者となったものの、ソフトテニスほどのやりがいを感じなかった。だが、〇八年北京パラリンピックで世界の障害者アスリートたちを相手にメダルを取れなかったことで考えは一変、頂点を目指すようになった。

 翌〇九年に渡米、一流アスリートを育てるトレーニング機関に自費留学した。陸上三段跳びの五輪金メダリストで米国人のアル・ジョイナーさんの指導を受け、走り幅跳びにも力を入れた。ただ、競技力は上がったものの資金難に陥り、苦肉の策として一二年三月にセミヌードカレンダーを発売した。

 海外では称賛されたが、日本では「障害を売り物にしている」と批判され、精神的にダメージを受けた。そんな中、たどり着いたロンドンでは、選手村で眠れず、食事が満足にできないほど追い詰められた。結果は八位。「そういう経験もあって今でもたまに、自分の判断に自信がなくなる」

 ジョイナーさんからは、中西選手が日本に居心地の悪さを感じていたことを察したのか、「日本の仲間も大切にしなくてはだめだよ」と諭された。

 ロンドン後は半年間、陸上から離れ、復帰後は主に出身地の大分県を拠点に練習した。高校のグラウンドで生徒たちの練習に交じることも。地元企業のスポンサーもつき、「いろんな人の支えの中で生きていることに気付いた。跳躍に、応援してくれた人たちへの恩返しの気持ちを込められるようになった」。

 東京大会までに6メートルを跳ぶのが目標だ。リオ大会でフランスの選手が樹立した5メートル83の世界新記録を上回る数字だが「道筋は見えた」と話す。

 ロンドン以降に練習を見てくれた日本のコーチが三カ月前、仕事の都合で辞め、不安要素もあった。それでも心のバランスを保てた。「一歩を踏み出せた」。東京へ向け、自分の殻を破る四年間が始まった。

 (伊藤隆平)

※ご利用のブラウザのバージョンが古い場合、ページ等が正常に表示されない場合がございます。