紙面から(パラリンピック)

東京へつなぐ 社会変える 日本選手団132人奮い立つ

本番会場で調整する車いすバスケットボール男子の藤本怜央=4日、リオデジャネイロで(共同)

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 東京パラリンピックにつなげるため、特別な意味を持つ十二日間となる。四年後に自国開催を控えて迎えるリオデジャネイロ大会。日本選手団主将を務める車いすバスケットボール男子の藤本怜央(れお)(SUS)は「今までにない注目が集まっている。選手団の活躍が四年後の東京、そのさらに先の未来につながっていく」と使命感を漂わせる。

 陸上の男子走り幅跳びで金メダルを狙う三十四歳の山本篤(スズキ浜松AC)は二〇〇〇年三月、バイク事故で左脚を失った。その夏、シドニー大会の映像を見た。「(脚がなくても)走れるんだ」

 昨年まで世界選手権で二連覇した。世界記録樹立も経験した。「スポーツでポジティブになれた」喜びを伝えたいという。「東京が決まったので、(競技力に)限界は見えているが、やるかという思いがある」と自らを奮い立たせる。

 一九六四年東京大会以来、史上初の同一都市二度目のパラリンピック開催となる東京大会招致が二〇一三年九月に決まった。その後、競技の管轄は厚生労働省から五輪と同じ文部科学省に移り、スポーツ庁発足などで強化の道筋がつく。

大勢の選手や関係者が行き交うリオデジャネイロ・パラリンピックの選手村。バリアフリーの状況や設備について、選手の評判は上々という=6日(共同)

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 第一回のローマ大会は一九六〇年、参加四百選手と小規模なものだった。「車いすの患者が社会に、そしてスポーツ界に溶け込む新たな形を示した」とは「パラリンピックの父」故ルートビヒ・グトマン医師の閉幕後の言葉だ。

 半世紀以上を経た今、参加選手は四千人を超える。日本パラリンピック委員会(JPC)の鳥原光憲会長が「障害も個性の一つと捉え、違いを受け入れる社会への変革を促すことが開催の最大の遺産だ」と語るように、グトマン医師の精神は受け継がれている。

 八月二日、日本選手団の結団式が行われた。相模原市の障害者施設殺傷事件からちょうど一週間がたっていた。三十二歳の藤本は力説する。「スポーツでまだまだ伝えることがあると強く感じた。それがパラリンピアンとしての役割だ」。リオでの奮闘が競技環境の向上をもたらすことにとどまらず、差別や偏見が消えない社会を変える一助になると信じている。

 (共同)

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