紙面から(パラリンピック)

<パラリンピアンの翼>(5) 卓球・吉田信一 

リオ・パラリンピックに向け、練習に励む卓球の吉田信一選手=東京都北区の味の素ナショナルトレーニングセンターで

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 「髪はリーゼント、学ランの裏地には刺しゅう。周りから見ればヤンキーだった」。卓球の吉田信一(50)=東京都府中市=の金色に脱色した髪が、昔話に妙な説得力を添える。

 高校三年の始業式前日、福島県須賀川市の実家近くでのバイク事故で車いす生活になった。入院は一年に及び、高校を中退した。

 父のドッグブリーダーの仕事を手伝ったり、工場で働いたりしながらも「友人と車で遊ぶなどフラフラだった」。二十八歳の時、地元で開かれる全国身体障害者スポーツ大会の選手募集で卓球と出合った。ようやく打ち込めるものを見つけ、のめり込む。ちょうど遊び仲間の友人たちは家族を持ち、離れていく時期と重なった。競技環境が整った都会を目指し、三十四歳で上京を決意。ステーションワゴンに家財道具一式を積み込んで東京へ向かった。

 「仕事のあてもなく、一週間で見つからなかったら帰ってくると、父とは約束していた」。ハローワークで、障害者雇用の枠として大手企業のグループ会社のパソコンでの事務仕事があると紹介された。会社からは3DKのバリアフリー住宅を用意され、卓球台を持ち込んだ。「中卒で、東京で大手に入って、あんな所に住めてうれしかったな。アメリカンドリームじゃないけど」

 だが、良いことと悪いことは背中合わせだった。帰宅は午後十時を回り、練習との両立に悩んだ。長時間の座り仕事は車いす利用者には大きなリスク。練習どころか褥瘡(じょくそう)を患い、二度の入院と一年間の休職が待っていた。

 練習拠点に近い府中市に転居し、仕事も国立の研究開発法人に変えた。「卓球に取りつかれ、卓球に人生がついてきたのだから、仕方がない」

 パラリンピック出場を強く意識したのは二〇一一年三月の東日本大震災後。世界卓球選手権に出場し、各国の選手から日の丸に励ましのメッセージやサインを書いてもらい、被災した故郷・福島に届けることができた。一二年ロンドン大会を目指したがかなわず、そんな時期、気にかけ続けてくれた父を亡くした。霊前に報告するためにも、リオに懸けた。

 選考対象となる試合はプレースタイルが似るアジアの選手とぶつからないような大会を選んで、戦略的にリオ切符をつかんだ。「障害者にならなかったら、逆に社会に迷惑をかけていたかもしれない」と笑う。卓球のラリーを「これもできないのか、あれもできないのかと自分に問い掛けられているよう」と表現する五十歳の“不良少年”の眼光は、やはり、鋭い。

 (文中敬称略)

  =終わり

 (この連載は伊藤隆平、荘加卓嗣が担当しました)

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