紙面から(パラリンピック)

<パラリンピアンの翼>(1) 車いす陸上・佐藤友祈

日本勢の強化合宿で練習に励む佐藤友祈選手=6月15日、和歌山県田辺市で

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 二十一歳の秋、高熱に襲われ意識を失った。思い返せば半年ほど前から、足や腰に力が入らないことはあったが、単なる疲れと思っていた。リオデジャネイロ・パラリンピック車いす陸上400メートル、1500メートル(T52クラス)に出場する佐藤友祈(ともき)(26)=静岡県藤枝市出身=は、いまも脊髄炎にかかった理由が思い当たらない。

 へそから下の不随と左腕の重いまひをもたらした原因を医師は「菌が脊髄に入り悪さをした」と診断した。

 小中学校では陸上中長距離に励み、高校生のころはキックボクシングのジムに通った。「体は丈夫と思っていたのに、なんで自分が…」。父隆(たかし)(54)におぶわれ退院した日から、家を出る気力が出なかった。一年十カ月後に二〇一二年のロンドン・パラリンピックをニュースで見るまでは。

 画面には「レーサー」と呼ばれる時速三十キロを超える車いすで走る陸上選手の姿。会場は熱気にあふれていた。障害者のイメージが変わった。二カ月後、地元の陸上選手を見つけてレーサーを使わせてもらうと、風が頬をなでた。久しぶりの感触だった。

 パラリンピック出場を目指すと決めた一四年、練習場が近い岡山県内の職業訓練・リハビリ施設に入所した。「パラリンピアン」という言葉を知らない人が多かったころから車いす陸上に懸け、ロンドン大会に出場したT53クラスの松永仁志(43)が、偶然にも岡山市に住んでいた。

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 松永はかつての自分と佐藤を重ねた。高校二年のころのバイク事故で両脚が不随になった松永。〇四年のアテネ・パラリンピックへの出場を目指して果たせなかったことで、十年勤めた企業を辞め、フルタイムで働く「安定」を捨てた。非常勤の仕事をしながらスポンサーを探して回った。「ろくに力もないのに鼻っ柱が強く、反感を買うこともあった。支援してもらえるありがたさを知った」

 一四年からは、障害者が事務代行などをする会社「グロップサンセリテ」(岡山市)所属の選手として、正社員の身分で競技に専念している。翌一五年九月に招いた佐藤も正社員になった。

 だが、佐藤の練習時間は昔の松永のように午後五時半までのフルタイムの仕事を終えてから。その理由はこうだ。「二〇年の東京大会開催が決まり、企業から声が掛かる障害者アスリートは増えている。でも、二一年以降はどうなるか。友祈にはまず、地に足をつけて生きることを学んでほしい」

 リオは、障害者アスリートとして一歩を踏み出した佐藤にとって初めての大舞台。松永が導き、ともに羽ばたく。

 (文中敬称略)

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 百六十カ国・地域以上の四千人を超える身体・知的障害者がメダルを競うもう一つの五輪、パラリンピックが七日、ブラジル・リオデジャネイロで開幕する。出場選手たちを地球の裏側まで運んだ「翼」を伝える。

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