紙面から

五輪、平和だからこそ 幻の「東京」目指した長野の女性 

戦後に高等女学校時代の水泳部仲間と再会した時の写真を手に「スポーツと戦争は決して相いれない」と語る矢外節子さん=長野県白馬村で

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 長野県白馬村の矢外(やがい)節子さん(91)は名古屋市で過ごした高等女学校時代、一九四〇(昭和十五)年に開催予定だった東京五輪の競泳への出場を目指して猛特訓したが、日中戦争の拡大で開催が返上され、夢を果たせなかった。リオデジャネイロ五輪での日本選手の活躍を喜びながら「スポーツに打ち込めるのは平和であればこそ。戦争は絶対にいけない」との思いをかみしめている。

 兵庫県宝塚市で生まれ、名古屋市には十歳のころに移り住んだ。自宅近くの庄内川で泳ぎを覚え、三七年四月、競泳の強豪だった愛知淑徳高等女学校(現愛知淑徳中学・高校)に入学。水泳部で特訓を受けた。

 二年生の時に自由形200メートルで2分53秒の好記録をマーク。当時の高等女学生としては最速レベルとされ、腕を素早く大きく回す泳法は「大車輪のようだ」と言われた。

 活躍が目に留まり、日本水上競技連盟(現日本水泳連盟)から、東京五輪の強化合宿への参加を求めるはがきが届いた。「世界の舞台で自分の限界に挑戦しよう」。五輪出場を目指して練習に一層、熱が入った。

 だがその後、戦況が激化し、合宿参加は実現しなかった。三八年七月に五輪返上が決定。東京五輪は幻に終わり、矢外さんは兵器工場に動員され、小銃の薬きょうなどの製造に従事した。

 「お国のために銃後を支えなければという一心だった。五輪のことなんか、忘れていた」。荷物を運び込んでいた岐阜市内の親戚宅が空襲に遭い、メダルや賞状、競泳中の写真などは全て灰になった。

 終戦後に結婚して東京に移り、約四十年前、次男がペンションを経営していた白馬村に移住。水泳を再開し、一時は地元の小学生らに指導。現在も月に数回、プールで水中運動などをしている。

 リオ五輪の日本選手にはテレビで声援を送っている。「アスリートの熱い魂を持っている」。一方で「もしやり直せるのなら、自分も五輪で思いっきり泳いでみたい」との思いも頭をよぎる。

 「平和の祭典」が感動を与える一方で、シリア内戦など、戦火がやまない世界。リオ五輪では難民選手団の初参加も注目を集めた。「スポーツを無心に楽しめる平和のありがたさが身に染みる。私のように、戦争のために夢を断たれる子どもが二度と出ないように、平和を守り続けていきたい」

 (大町通信局・林啓太)

 <幻の東京五輪> 東京市(当時)の議会が1931年に、第12回五輪(40年)の招致を決議。36年7月にベルリンで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)会議で対立候補のヘルシンキを破り、アジア初の五輪として開催が決まった。だが、37年の盧溝橋事件を発端とする日中戦争の影響で、東京五輪に反対する動きが各国で強まり、多数のボイコット国が出ることが懸念された。日本国内でも戦争遂行のために反対する声が強まり、38年に東京五輪の大会組織委員会が開催返上を発表。40年の五輪自体が中止となった。東京では戦後の64年、第18回五輪が開催された。

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