紙面から

1点差「挑む姿勢見せた」 手倉森監督、次戦見据え

ナイジェリア戦に臨む手倉森監督=マナウスで(佐藤哲紀撮影)

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 リオデジャネイロ五輪のサッカー男子を率いる、手倉森(てぐらもり)誠監督(48)はかつて、全財産を失い、失意のどん底を味わった経験がある。激動の人生をパワーに変え、「新しい歴史をつくる」と息巻く。メダル獲得への大事な試合と掲げたナイジェリア戦に敗れ「開幕戦ならではの慌て方があった。次の試合で日本に勝利を届けたい」と次戦を見据えた。

 序盤の点の取り合いから一転、後半は最大で3点を追う展開に。スーツを脱ぎ、ネクタイも外して選手にげきを飛ばした。試合終了間際に1点差に迫る粘りを見せ「これがないと日本じゃない。挑む姿勢は見せられた」と語った。

 現役時代は世代別の日本代表に選ばれるほどの有望株。だが、J1鹿島アントラーズの前身である住友金属に入団すると、ギャンブルにのめり込み、サッカーへの情熱を一気に失った。「練習をさぼってパチンコ屋に行っていたら、同僚のジーコ(元日本代表監督)が探しにきた。台の下に慌てて隠れたよ」

 チームのプロ化に伴い、一九九二年に戦力外を通告された。二十五歳。自暴自棄になり、年末に全財産の千二百万円を持ち、千葉県の中山競馬場へ足が向かった。単勝馬券一点勝負で六百万円をすり、翌日も同じ賭け方で六百万円を失った。九三年のJリーグ開幕に向け、かつての同僚たちが意気揚々とする中、「もう死ぬしかない」と、路地裏をさまよい歩いた。

 そんな時、アマチュアリーグのNEC山形(現・J2モンテディオ山形)から声がかかり入団が決まった。自然と、文字どおり何もない自分を支えてくれた、サッカー関係者や家族への感謝があふれ出た。「もう二度と迷惑はかけられない」。ギャンブルは金輪際、断った。

 九五年に現役引退し、指導者の道へ。J1ベガルタ仙台の監督当時の二〇一一年、東日本大震災を経験した。翌年には弱小チームをリーグ二位に押し上げ、東北を活気づけた。

 初戦の黒星で、チームは決勝トーナメント進出へ背水の陣を敷く。「人にはストーリー(人生経験)が大事」と盛んに口にする指揮官。紆余(うよ)曲折を経て得た経験値で、チームをサクセスストーリーへと導く。

 (ブラジル北部マナウス、植木創太)

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