• 中日新聞ウェブ
  • 中日新聞プラス

岐阜

<岐阜から考える>(2)オキナワの負担

2019年7月11日

米軍基地「キャンプ岐阜」があった当時を振り返る真崎さん(左)と後藤さん。基地は返還後、航空自衛隊岐阜基地となった=各務原市で(布藤哲矢撮影)

写真

 ○&%?#。耳をつんざくごう音が、国道を走る自動車のエンジン音をかき消した。各務原市那加地区の航空自衛隊岐阜基地。ここは戦後の一時期、米軍基地「キャンプ岐阜」だった。

 一九四五(昭和二十)年十月二十七日の中部日本新聞岐阜版の記事だ。

 今は恨みも憎しみも遙か歴史の彼方に押やつて今日この時から岐阜に於ける“平和”と“親善”の一路が始つたのだ

 やや、興奮気味に前日の様子を伝えている。名古屋港から上陸した米兵数千人が、旧日本陸軍の各務原飛行場への進駐を始めた。

 県史や各務原市史によると、キャンプは五〇〜五三年の朝鮮戦争当時、前線への補給基地となった。駐屯する米兵は八千人前後。キャンプゲート前の通りにはキャバレーやビアホールが軒を連ね、「租界NAKA」との異名を取った。やがて、キャンプには精鋭部隊の海兵隊が駐留する。

 「かっこよくて、英雄のように感じた」。那加地区の理容店「チャーリ」店主の後藤巌(いわお)さん(78)が、米軍との思い出を振り返る。女性に優しく、甘いガムやチョコレートを持っていた。

 父の芳一さんが、ここで米兵向けのバーを営んでいた。店名は「チャーリープレス」。終戦後、キャンプ内で雑用の仕事をしていたときに名付けられたニックネームにちなんだらしい。

 地元で育った真崎時紀さん(82)も「食べるものがない時代。チョコレートをもらうため、基地の中に遊びに行っていた」と懐かしむ。

 地域経済を潤す存在は、問題も引き起こした。後藤さんは、女性が大勢でバスに乗り、病院とおぼしき方へ向かう姿を見た。性病がまん延していた。米兵による暴行もあったという。

 五〇年代、全国で学生や労働組合による反基地闘争が盛り上がった。岐阜も例外ではない。左派や岐阜大の学生が反対運動を繰り広げたとの記録が残る。

 米軍の戦力再編に伴い、キャンプ岐阜は五八(昭和三十三)年、日本側に完全返還された。街にあふれていた横文字は消えた。いっときは活気が失われたように見えたが、高度経済成長の波に乗り、各務原は、県を代表する工業の街、ベッドタウンとして発展していく。

 岐阜を去った海兵隊は、沖縄へ移った。現在、宜野湾市の普天間基地には、安全性への懸念が消えない垂直離着陸輸送機オスプレイが配備されている。見送られはしたが、二〇一三年、空自岐阜基地でオスプレイの展示が計画されたことがある。そのとき、周辺自治体や住民は強く反発した。

 「知らないうちに自分たちが加害者の側に立っているかもしれないという意識を持つべきだ」

 岐阜大名誉教授の竹森正孝さん(72)が言う。日本の国土面積の0・6%に七割の米軍専用施設が集中する沖縄の現状について、発言を続けてきた。普天間基地を名護市辺野古に移設する問題で一月、沖縄の民意を無視して新基地の建設を強行することは「憲法違反」とする憲法学者百三十一人の声明に名を連ねた。

 政府の姿勢を「地方自治の否定」と断じつつ、岐阜県民にも呼び掛ける。「一人一人、辺野古を自分の問題として考えるべきだ」

 (杉浦正至)

主な政党の公約

新聞購読のご案内