長野

<おらほの自治>(6)「悪夢」からの一歩

2015年3月21日

議長席から町長(右)の答弁を見つめる寺島渉さん=飯綱町で

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 「あの頃は最低の議会だったんだ」

 二月末のある日、飯綱町議会議長の寺島渉(65)は、窓の外にまだ雪景色が広がる町議会事務局にいた。ソファに腰掛けた寺島は九年前の「悪夢」を思い出して、自戒を込めて語った。

 二〇〇五年十月、飯綱町は牟礼、三水両村が合併して誕生。だが翌年、旧牟礼村から引き継いだ第三セクターのスキー場の経営危機が表面化し、融資元の金融機関から、貸付金の返還を町に求めて訴えられる全国初の異常事態となった。結果は全面敗訴。八億円を税金から支出することになった。

 三セクと旧牟礼村が結んだ契約書に落とし穴があった。スキー場経営で損失が出た場合は自治体が補償すると明記してあった。

 「ちゃんとチェックしとったんか」。住民たちの怒りは、行政をチェックする議員にも向かった。

 合併前、旧牟礼村議を四期務めた寺島は追及を受け自問自答した。議員たちは損失補償契約の内容を理解せず、議案に無条件に賛成していた。質疑の時はいつも手が挙がらず、議場は沈黙した。「僕らは追認機関に成り下がっていた」

 〇七年十一月、寺島は議会運営委員長に就き、議会改革を始めた。住民にアンケートで議会の信頼度を尋ねると「信頼できない」が76%という結果が出た。「支援者ばかりと付き合って自分たちは支持されていると思っていた。大きな溝を知り、みんな驚いた」

 学習会を毎週のように開いた。議会の先進的な取り組みへの意見を出し合い、予算や条例の審議前は論点を洗い出した。「質問しないのは自信がないからだった。それなら学べば良い」。次第に発言しない議員が珍しくなっていった。あるベテラン町議は「学ぼうという意識が芽生え、行政と対等に議論するようになった」と振り返る。

 しかし、住民との距離は縮まらなかった。寺島は、町民一万人の意見を代表するには議員十五人では限界があると考え、「政策サポーター」という制度を始めた。一つのテーマを住民十数人と議員が一緒に議論して政策にまとめ、町長に提言している。

 サッカーのサポーターからヒントを得た。住民に議会の応援団になってもらいたいとの願いを込めた。子育て中の母親と延長保育の無料化を町長に提案し、実現した。「議員は高齢化して若者の声が届いていなかった。新鮮だった」

 昨年六月、改革の一環で住民が傍聴しやすいように夜間議会を開くと、三日間で年間の傍聴者数を超える六十人が訪れた。

 最近は「議会はよくやっとる」と声を掛けられることがあるが、まだまだと寺島は感じている。平日の傍聴席に人はおらず、前回の町議選も直前まで無投票になりそうだった。議員のなり手不足は議会への無関心の結果だと受け止める。

 「町が動いていくのを実感してもらえれば、きっと関心は広がり、信頼が得られる」。寺島はこう信じている。

 今力を注いでいるのは、新人議員の教育。改革の芽が途絶えないように育て続ける。

 「一発ぶち上げるだけではだめ。信頼される議会になるには十年、十五年かかるよね」

 =終わり

 (この連載は、小西数紀、石川由佳理、西川正志、成田嵩憲、武藤周吉が担当しました)