三重

<20万都市の未来へ 鈴鹿市長・市議W選>(中)多文化共生

2015年4月17日

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 「カバンの中にあるのは何?」

 「サイフ、ケイタイデンワ、エット…」

 三月下旬の土曜、大工場が集まり、多くの外国人が暮らす鈴鹿市牧田地区のコミュニティセンターの一室。ブラジルやインド、フィリピンと、さまざまな国の八人が熱心に日本語を学んでいた。

 「牧田いろは教室」は、市内で三つあるボランティアによる日本語教室の一つ。毎週土曜に一時間半、ひらがなの読み書きから上級者向けの敬語の使い方まで、習熟レベルに合わせて開いている。

 市国際交流協会主催のボランティア養成講座の修了生らが中心になって教室を始めた二〇〇九年は、リーマン・ショック直後。代表の伊藤由香さん(38)は「当時の受講者は、『日本語ができない人から首になる』という仕事の理由から、日系の南米人が大半だった」と振り返る。

 鈴鹿市の外国人登録者数は三月末現在、五十四カ国の六千九百二十一人で、人口の3・5%を占める。一万人を超えていたピークの〇八、〇九年から三割減ったのは、五千人以上いたブラジル人の半数以上が職を失って帰国するなど、市を離れたのが大きい。それに伴い、中国や東南アジア系の比率が高まった。

 教室の“多国籍化”も次第に進んだのに加え、「子どもの学校からのお知らせ文が読めないなど、生活に直結する理由の人が増えた」と伊藤さん。日本人の夫と子どものやりとりが理解できず、疎外感に悩むといった例もあるといい、「運営だけで手いっぱいで、受け入れ規模を広げられないのが悩ましい」と話す。

 牧田地区地域づくり協議会長の伊藤輝義さん(67)は「あいさつするだけの表面的なつきあいから、一緒に暮らし、互いに協力しあえるようになるのが課題」と言う。

 協議会では一〇年の設立前から外国人にメンバーに入ってもらい、祭りや防災イベントに参加を呼び掛けてもらうなどの取り組みを率先してきた。「もはや、多くの外国人に鈴鹿の産業を担ってもらっている。少子高齢化が進む中、地域の活性化も助けてもらわねば」と語る。

 鈴鹿市に日系人が急増したきっかけとなった入管難民法の改正から二十五年。長い期間をかけて、市の外国人への支援は少しずつ前進してきた。一例が子どもの教育面。日本語指導支援員の派遣などの成果もあり、十年前には50%余りだった外国人の高校進学率は、100%近くまで上がった。

 その一方で、長く鈴鹿で暮らしながら、全く日本語がまったく分からない人は依然多い。リーマン・ショック以降、雇用環境は不安定になり、「工場で働く日系人」が大半だったかつてとは、求められる施策も変化している。生活支援や雇用対策、多言語化への対応…。さらにそれらの支援を実現させる資金と人材の育成。異文化を理解して共に生きる「共生」から一歩進め、一緒にまちをつくるパワーにつなげていくには、道は遠い。