(16) 白星のたびに「私も強い」-玉の海と名古屋場所

2024年07月03日
1970年春場所を前に、横綱昇進の番付を見て喜ぶ玉の海(玉乃島)

1970(昭和45)年春場所、玉の海が北の富士とともに横綱に昇進し、「北玉時代」が幕を開けた。柏戸は69年に引退し、大鵬も全盛を過ぎていた。70、71年の多くは玉の海、北の富士が優勝を分け合い、2人の取組に視線が注がれた。

「自分も強くなったような気持ちになりました」。「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の葛谷充代さん(66)=愛知県一宮市=は玉の海が白星を挙げるたびに喜んだ。

名古屋場所千秋楽の横綱対決で、北の富士を寄り切り、全勝優勝を決める=1971年7月18日、愛知県体育館で

71年夏場所で大鵬が引退し、北の富士が全勝優勝した。

そして次の名古屋場所、7月18日の千秋楽結びの一番の相手は北の富士。2分40秒の大一番の末、左四つから北の富士を寄り切った。

拍手、ため息、歓声が交錯する中、ようやく15個目の白星を挙げた。観客は立ち上がり、惜しみない喝采を送った。

中学1年の葛谷さんは台所の母に「玉ちゃん、全勝優勝だよ」。ぴょんぴょん跳び上がって喜んだ。

(15) 初恋の力士をスクラップ-玉の海と名古屋場所

2024年07月02日
関脇同士、名古屋場所前に歓談する北の富士と玉の海(玉乃島、右)=1966年

玉の海に思いを寄せる少女が愛知県一宮市にいた。「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の葛谷充代(くずや・みちよ)さん(66)。「どこが好きかって? 顔、体型。相撲のうまさが違うんです」。テレビの向こうの玉の海が初恋の人だ。

小中学生のときにつくった玉の海のスクラップと葛谷充代さん=2024年4月、愛知県蒲郡市で

「強い力士がいるよ」。相撲ファンの6歳上の兄に玉の海を教えられた。

玉の海の活躍を報じた中日新聞記事をスクラップし始めたのは小学6年、1970(昭和45)年のころ。「玉の海、愛知県蒲郡市出身」とテレビで呼び上げられるたびに胸を高鳴らせた。

ライバルは北の富士。65年に名古屋場所が県体育館に移転した。柏戸、大鵬らが綱を張る中、玉の海、北の富士が頭角を現した。

66年、県体育館で2度目の名古屋場所では、互いに10勝目をかけて北の富士と対戦。玉の海は右上手投げを決められ、北の富士が先に大関に昇進した。次の秋場所後、玉の海が追いつく。

スピードのある北の富士と、力強く技を繰り出す玉の海。昭和の大横綱、大鵬に向かって若手2人が駆け上がった。中でも地元出身の玉の海に葛谷さんはくぎ付けになった。

(14) 明るくまじめ、母思い-玉の海と名古屋場所

2024年07月01日
銭湯でおどける玉の海

玉の海は16歳で幕下に昇進した。この時期の玉の海について「悪く言えば、半端相撲ともいわれていました」と「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の梅沢敏郎さん=岐阜市=は振り返る。

足技、上半身に頼った突っ張りを繰り出し、評価を落とした。

梅沢さんは玉の海を大正時代の関脇、両国(1892~1960年)に重ねる。櫓(やぐら)投げ、掛け投げを大胆に決めた90キロ。体格や取組スタイルが似ている。

両国は1914(大正3)年5月に新入幕優勝を果たしている。2024年春場所で尊富士がつないだ記録だ。

玉の海は持ち前の運動神経のよさに、愛される性格だった。「明るく、さわやか。気さくで人間性がある上、根っからまじめ」。小中学校の同級生で、愛する会会長の荒島伸好さん(80)=愛知県蒲郡市=は語る。

北の富士も「人間性が素晴らしかった。明るいし、さっぱりしていた。考え方が若かった」。

母親に額皿、手形の色紙を贈り、蒲郡市に家を建てた。母が家計を担っていた中学時代にはすし店でアルバイトも。仕送りもした。サイン色紙には「努力」「根性」。ファンレターを大切に保管した。

「体ができてくると、右四つ、左上手の盤石の相撲を取るようになりました」と梅沢さん。柔道の名残のある半端相撲を脱し、堂々とした取組を身につけていった。

(13) 細身が巨漢倒す-玉の海と名古屋場所

2024年06月28日
土俵入りを披露する横綱玉の海。このころには体重130キロを超えた=1970年6月、名古屋・熱田神宮で

技だけではない。「素質と努力があった」と話すのは「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の梅沢敏郎さん=岐阜市。入門時の体重は67キロ。稽古と食事で横綱時代には135キロの体をつくった。

玉の海が入門したころの新弟子は千里岩、栃忠、義ノ花ら巨漢が目立った。90キロあれば大型新弟子といわれた時代。国体出場の千里岩は110キロ、栃忠も高校覇者で125キロ、義ノ花は150キロあったとされる。未来の大関、横綱と目された。

しかし梅沢さんが注目したのは、大きすぎない力士だ。

1959(昭和34)年、金山体育館が本場所となって2年目の名古屋場所。初土俵から2場所後の玉の海は巨漢、栃忠を破り、序二段で全勝優勝を決めた。

星取表を読み込んでいた4歳の梅沢さんは「鳴り物入りの有望力士を負かし、玉の海にとっては快哉を叫ぶ一番だったと思います」。自分の目に狂いはない。少年はますますのめり込んだ。

(12) 助っ人に海賊驚く-玉の海と名古屋場所

2024年06月27日
関脇の玉の海(玉乃島、右)が大関豊山に白星。柔道で培った内掛けも得意だった=1966年5月、東京・蔵前国技館で

細身のトンボが横綱まで登り詰めたのはなぜなのか。蒲郡中時代の経験がある。

玉の海は柔道部主将でありながら相撲でも実績を残した。助っ人相撲部員として短期間の稽古で、愛知県中学校総合体育大会で3位を勝ち取った。

このときの相撲部顧問は竹内浩教諭。海軍の相撲でならしたことから「海賊」と呼ばれていた。

相撲部主将だった荒島伸好さんは柔道部主将の玉の海に相撲の稽古をつけた=2024年1月、愛知県蒲郡市で

相撲部主将だった「第51代横綱玉の海を愛する会」会長の荒島伸好さん(80)=愛知県蒲郡市=は「普通はすり足の基礎から教えるところを、竹内教諭は引きつけ、寄り身をいきなり教えました」。

相手の体を自分の腰に引き寄せる柔道に共通する技術。玉の海の引きの強さに海賊は目を見張った。

玉の海は荒島さんと繰り返し練習し、「引きつけ、吊り出しを完全に身につけました」。

柔道の技と抜群の運動神経。「内掛けで相手に足を入れれば勝てる。足腰も強く、天性のばねがありました。腰で相手の体を支えて振り回しました」

得意は内掛け、外掛け、吊り出し。まわしをつかみ上げ、運び出す吊り出しは芸術的といわれた。巨漢に臆せず仕掛けた。中学3年のとき、荒島さんと稽古に明け暮れたのが原点だった。

(11) 歴代上位の勝率8割6分-玉の海と名古屋場所

2024年06月26日
北の富士を豪快に上手投げ。玉の海(手前)はこの初場所で1敗同士の優勝決定戦に持ち込むが大鵬に敗れた=1971年1月、東京・蔵前国技館で

玉の海の横綱時代は短い。1970(昭和45)年から71年の在位10場所で優勝4度、優勝に準ずる成績は5度。9場所で優勝争いに加わる密度の高い1年半だった。

在位中の勝率8割6分は、白鵬には及ばないが、大鵬、千代の富士、貴乃花を上回り、歴代トップクラス。平均13勝で、安定の強さを示した。

例外は70年名古屋場所。横綱昇進後、13勝、14勝が常だった玉の海は、名古屋場所だけひと桁。金星2つを奪われ、9勝6敗のクンロクだった。

「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の梅沢敏郎さん=岐阜市=も「勝ち越していますが、抜群というほどの成績ではありません」。名古屋場所での不振を指摘する。

役力士としての玉の海は、名古屋場所計7度のうち、6度が10勝以下。新関脇の65年名古屋場所で6勝9敗で役力士として自身ワースト2。9勝6敗が4度、68年はかろうじて10勝5敗だった。

愛知県体育館での名古屋場所で成績が落ちたのは「ひいき筋との付き合いを律儀に行ったせいでしょうか。体調悪化に拍車をかけました」。

名古屋場所や蒲郡帰省時に、なじみのすし店、中華店に支援者と訪れた。選挙応援に駆け付けることもあった。気を回しすぎる性格が災いした。

「最後の名古屋場所前に親方が付き合いを制限しました。その結果、全勝優勝につながりました」

最後の71年名古屋場所は、千秋楽の横綱決戦で北の富士を寄り切って15勝。ようやく、黒星なしの全勝優勝を手に入れた。

(10) 北玉が切磋琢磨-玉の海と名古屋場所

2024年06月25日
1970年初場所千秋楽、玉の海(玉乃島、手前)が北の富士を吊り出し、2敗同士に持ち込む=東京・蔵前国技館で

北の富士は1966(昭和41)年秋場所で、玉の海は次の九州場所で大関デビューした。北玉時代の前哨が始まった。

玉の海は1桁白星で奮わなかった大関1年目から一転、67年11月から見違えるように力を出し、2桁勝利が定着した。

このころの北の富士は、横綱昇進を後ろ向きにとらえていた。成績を維持しなければならない横綱の重圧を間近に見ていたからだ。

69年名古屋場所。北の富士に火がつく。新大関の清国が初優勝し、綱とりか、と騒がれた。北の富士は「追い越されてたまるか」と目覚める(東京中日スポーツ2010年10月27日付寄稿)。

続く、秋場所で玉の海、九州場所で北の富士がそれぞれ2度目の優勝を遂げた。

そして70年初場所。横綱を狙う大関4人から2人が抜け出る。千秋楽では北の富士が13勝1敗で王手をかけ、玉の海が2敗で追った。玉の海は北の富士を豪快に吊り出し、2敗同士に持ち込んだ。

しかし優勝決定戦では、吊り上げられそうになった北の富士が玉の海に右外掛けを決める。「1日に2番も負けるわけにはいかない」(同)。奮起した北の富士が優勝。玉の海は7度目の優勝に準ずる成績に甘んじた。

このときまでの北の富士の幕内優勝は3回、玉の海は2回。2人は3年余、大関にとどまったが、70年初場所後、ようやく横綱に昇進。北玉時代に突入した。

(9) クンロクで伸び悩む-玉の海と名古屋場所

2024年06月24日
片男波親方に激励される玉の海(玉乃島、左)。平幕に下がることもあった=1965年1月

玉の海の大関1年目の1966(昭和41)、67年は大鵬、柏戸が優勝を奪い合った時代。玉の海は9勝6敗―クンロクが多く、伸び悩んだ。

「大関になって安心したのでは」と推測するのは、相撲史研究家の杉浦弘さん(82)=静岡県磐田市。

帰りを待ち構えた片男波親方が玉の海を殴り、その後、抱き合って泣いたという。「玉の海は夜遊びするようになりました。殴り合った後、目を覚まし、成績を上げます」

躍進し始めたのは大関2年目、67年九州場所。68年春場所までの3場所連続で優勝争いに絡み、68年夏場所は13勝2敗。ついに幕内で初優勝した。

北の富士は67年春場所で初優勝していたが、この時期、玉の海が躍進。綱との距離がぐっと縮まった。北の富士は「先を越されたかと観念」したが、「横綱審議委員会は『ノー』という答申をしてお流れ」になったと記している(東京中日スポーツ2010年10月27日付)。

この68年夏場所は大鵬、柏戸の2横綱が休場しており、2敗は平幕からだったことが影響したようだ。次の名古屋場所で玉の海は10勝どまり。結局、20場所、3年余を大関として過ごすことになる。

(8) 横綱を連覇、大関昇進-玉の海と名古屋場所

2024年06月21日
1965年初場所初日、新小結の玉の海(玉乃島、手前)は横綱大鵬を内掛けで攻め白星(左)。その後、大鵬を引っ張り上げた=東京・蔵前国技館で

三役昇進を果たした1965(昭和40)年初場所。玉の海は初日にいきなり、得意の内掛けで、初顔合わせの横綱、大鵬から白星を奪った。

2日目以降は不振で、5勝10敗と玉の海にとってワーストに近い場所となったが、「倒れた大鵬を起こして、ぺこりと頭を下げた。心技体が素晴らしかった」。「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の横田英夫さん(73)=愛知県蒲郡市=は振り返る。

愛知県体育館1年目の名古屋場所で関脇の玉の海(玉乃島、手前)が横綱大鵬を下手投げで白星=1965年7月

愛知県体育館開催初年の65年名古屋場所は関脇で臨み、横綱の柏戸、大鵬を敗った。しかし、下位に負け、6勝9敗。平幕に陥落も、力をつけて佐田の山、栃の海ら横綱を倒し、毎場所のように殊勲賞など三賞を受けるようになった。

翌66年、大関昇進を懸ける玉の海、北の富士の取組は激しさを増す。名古屋場所千秋楽、9勝5敗で並ぶ関脇の2人。

「彼(玉の海)が下手投げを打ち、私は上手投げを打ち返した。2人の体がパーッと二つに割れ、土俵下に落ちて物言い」となった(共同通信による北の富士インタビュー)。結果は軍配通り、玉の海が6敗目を喫する。

北の富士は10勝で、場所後、大関に昇進。「負けていたら、その後はどうなっていたか。大事な相撲だった」(同)。北の富士はこの取組を記憶に残る一番に挙げている。

次の秋場所は玉の海が勝利。北の富士の脚を跳ね上げ11勝した。玉の海は北の富士に1場所遅れて秋場所後、大関に昇進した。

(7) 「南洋場所」で活躍-玉の海と名古屋場所

2024年06月20日
名古屋場所開催中の金山体育館で氷柱で涼をとる子どもたち=1963年

1958(昭和33)年、名古屋場所が準本場所から本場所に格上げされ、引き続き、金山体育館で開催された。冷房はなく、大きな氷柱が置かれ、ボンベが酸素を噴出。あつい空気が封じ込められ、「南洋場所」と呼ばれた。

金山時代も玉の海は「足腰が強く、相撲センス抜群」と目された。60年には、体育館の天井窓が豪雨で壊れ、観客は傘を差して観戦した。三段目の玉の海はこの場所を3勝4敗で負け越している。

58、59年にはテレビ局が次々と開設され、プロレス、相撲、野球が人気を集めた。61年に柏戸、大鵬が横綱になり、「柏鵬時代」に突入。「巨人、大鵬、卵焼き」が流行語となった。

玉の海は2桁の勝ち星を挙げるようになり、64年春場所で新入幕を果たした。前頭6枚目で迎えた同年の最後の金山体育館では、8勝7敗で勝ち越し。秋には東京五輪が開催され、日本中に希望と活気があふれていた。

(6) 締まった体型 少年を魅了-玉の海と名古屋場所

2024年06月19日
玉乃島を名乗っていた三段目時代の玉の海。初土俵から1年半、細身で白星を重ねた=1960年9月、東京・蔵前国技館の支度部屋で

岐阜市では、「第51代横綱玉の海を愛する会」会員で岐阜市立女子短大名誉教授の梅沢敏郎さん(英語学)が「相撲は下のほうが面白い」と相撲誌を日がな一日、眺めていた。

このとき、梅沢さんは3歳ごろ。食卓で祖父が「蒲郡中の柔道、相撲は素晴らしい」「善竹少年は強い」と話すのを聞いていた。

祖父は岐阜県の中学校長。県教育委員会在籍時代には、日本学校安全会法成立(1959年公布)、児童・生徒の学校安全会設立に向け、愛知県の学校も視察していた。

祖父の印象に残ったのが蒲郡中。柔道部の善竹正夫―玉の海が梅沢さんに刻み込まれた。早熟な梅沢さんは相撲誌を読み込み、漢字を相撲文字で覚えた。祖父から土産でもらったセルロイド力士人形で取組を再現した。

取り口、体格、性格を見比べて、応援する力士を下位から絞り込む。梅沢さんの好きなのはソップ型。筋肉で締まった太すぎない力士だ。59年7月、序二段で全勝優勝した玉の海を「細くて、ガリガリ」と見ていた。

柔道に通じる大胆な足技にも魅了された。祖父も注目した玉の海に親近感を抱き、番付が上がるのが楽しみになった。一方で、幕内優勝するような体つきではないとも達観していた。

(5) 金山で序二段全勝-玉の海と名古屋場所

2024年06月18日
初土俵の大阪へと出発する前の玉の海(右端)。母ハルヨさん(左から2人目)を大切にした=1959年

1959(昭和34)年3月、卒業直前の蒲郡中3年7組の生徒たちは蒲郡駅で旅立つクラスメートを見送った。部屋の玉響に付き添われ、初土俵の春場所・大阪に旅立つ玉の海。「第51代横綱玉の海を愛する会」会長で、相撲部主将だった荒島伸好さん(80)も「がんばれよー」と大きく手を振った。

名古屋場所が本場所に加わったのは前年58年7月。金山体育館でスタートした。蒲郡も相撲熱の高い土地柄だ。柔道も相撲も屈指で、将来は警察官になりたい、と将来を語っていた玉の海をのちの片男波親方が蒲郡の知人を通して誘った。

3年時の担任で相撲部顧問の竹内浩教諭は玉の海―善竹正夫が卒業後、相撲の道に進むとクラスで紹介。お別れ会でクラスメートは春日八郎の歌、玉の海は自らギターを弾き、古賀メロディーを披露した。

角界に入ってからもギターやボウリングを楽しんだ

本場所に昇格した58年の名古屋場所では、初代若乃花と栃錦の両横綱が優勝を争い、軍配が上がったのは若乃花。平成の若乃花、貴乃花の伯父だ。玉の海が初土俵を踏んだのはこの「栃若時代」の59年3月の春場所。次の夏場所は序ノ口で6勝2敗。初土俵から3場所目、序二段で迎えた7月の名古屋場所は、277人もがひしめく中、8勝0敗。金山体育館で優勝した。秋場所では三段目。トントン拍子に昇進した。

(4) 柔道猛者が角界へ-玉の海と名古屋場所

2024年06月17日
蒲郡中時代の玉の海。力士を目指すには細身だった

「トンボのように細かった。相撲記者、親方もびっくりしました」

入門時、15歳の玉の海は173センチ、67キロ。今ほどの重量力士は少ないとはいえ、横綱になるとは誰も想像しなかった。

柔道負けなしで、相撲でも県内3位。抜群の力量が角界の目を引いた。

稽古をつけた相撲部主将の荒島伸好さん(80)=愛知県蒲郡市=は小学校時代から中学2年まで、相撲で負けることはかった。しかし59年、中学卒業前の正月を過ぎると玉の海に逆転された。「10番とって1番も勝てない。まったく歯が立たなくなっていました。俺はこれで食っていくと覚悟を決めたのでしょう」。玉の海は入門を決めていた。

荒島さんの周りには、ほかにも角界に入る仲間がいた。蒲郡中相撲部主将だった和晃(かつひかり)は、玉の海の4カ月前に初土俵を踏み、前頭筆頭まで上がった。同じく前頭筆頭だった栃王山は中京商業高(現中京大中京高)で活躍していた。ともに、荒島さん、玉の海の1学年上だ。蒲郡中の1年後輩には、玉葵(三段目)がいた。

下位時代の玉の海

「今の善竹なら栃王山より強いんじゃないか」。栃王山も初土俵は玉の海の4カ月前で、59年1月に序ノ口優勝していた。玉の海は細身だが、力では栃王山に見劣りしない。相撲界でやっていける、と荒島さんはエールを送った。

(3) 同級生らが「愛する会」-玉の海と名古屋場所

2024年06月14日
蒲郡中柔道部で主将だった玉の海(手前)

「柔道は敵なしだったが、相撲は強くなかった」。「第51代横綱玉の海を愛する会」会長の荒島伸好さん(80)=愛知県蒲郡市=は中学時代の玉の海をはっきりと覚えている。

「走るのは僕の方が速く、相撲も僕が上。でも善竹は水泳はじめ、運動神経は抜群。スポーツ万能だった」

善竹正夫は中学時代の玉の海。小学6年のとき、地元相撲大会で優勝した荒島さんは蒲郡中で相撲部へ。玉の海は柔道部に入部した。

部員50人ほどを抱える県内強豪の柔道部。玉の海は柔道部主将として大所帯を率いた。柔道部顧問の河原照夫教諭は「50人の部員をわずか10分ぐらいで片づけた」と語っている。天性の足腰のばねで県内に並ぶ者はいなかったという。

中学3年では県内中学の大会で団体準優勝。優勝は東海中(名古屋市)。主将同士の一騎打ちで玉の海は数秒で相手主将を投げ飛ばした。

荒島さんは「柔道で個人戦があれば絶対に優勝していた」。愛知の柔道界も「善竹に敵なし」と注視した。蒲郡中に稽古をつけに来た東海高柔道部員は玉の海をスカウト。同高に進学する準備も進んでいた。

そんな玉の海を蒲郡中相撲部は助っ人として招いた。柔道猛者は1958(昭和33)年8月、県中学校総合体育大会の相撲でも個人の部3位に勝ち上がった。

実力を耳にしたのちの片男波親方が玉の海をスカウト。蒲郡中校長も勧めた。玉の海は横綱を目標に河原教諭に「ひと一倍稽古する、兄弟子のいいつけを守る」など「五か条」の誓いを立てた。「活躍して母を楽にさせたいとの思いが強かったのでしょう」。相撲部主将だった荒島さんは、同級生の思いを代弁した。

玉の海の石碑を囲む「第51代横綱玉の海を愛する会」の(左端)梅沢敏郎さん、(1人おいて)荒島伸好さん、福井要人さん(右手前)、千葉東さん(右端)ら=2023年10月、愛知県蒲郡市で

蒲郡南部小4年のときに転入してきた玉の海、荒島さんは蒲郡中に進み、3年時はクラスメート。それから60年余。荒島さんら同級生は2021年10月、玉の海の没後50年の法要を営み、22年10月、写真展「横綱玉の海展」を蒲郡市博物館で開いた。23年6月には「第51代横綱玉の海を愛する会」を結成。会員約30人が墓参、石碑清掃、遺品収集、展示、相撲観戦で早世の横綱を悼んでいる。

(2) 「双葉山の再来」が27歳で急死-玉の海と名古屋場所

2024年06月13日
土俵入りする横綱の玉の海

玉の海―善竹正夫(よしたけ・まさお)は1944(昭和19)年、大阪市生野区に生まれた。4人きょうだいの三男。戦災で一家は愛知県豊田市、岡崎市に移り、1953年、蒲郡市に引っ越した。

蒲郡南部小から蒲郡中へと進み、強豪の柔道部へ。県内準優勝をけん引し、相撲でも県大会個人3位。これら活躍から二所ノ関部屋に誘われ、59年春場所で初土俵を踏んだ。

養子に入るなどして竹内、谷口へと姓を変え、しこ名も玉乃嶋、玉乃島を経て玉の海に。得意は吊り出し、内掛け、外掛け、上手投げ。柔道の経験を生かした鮮やかな取り口で魅了した。70年初場所後、ライバル北の富士(1942年~)と横綱に昇進。この時期には右四つを完成させ、「双葉山の再来」とささやかれた。

そして71年。玉の海は念願の全勝優勝を果たした。入門4カ月後、59年にも序二段で8勝しており、無傷での優勝は生涯2回。いずれも名古屋場所だった。序二段は金山体育館で、幕内は愛知県体育館だ。

幕内優勝6回。準ずる成績は12回。序ノ口からの通算成績は619勝305敗。横綱在位10場所に限れば130勝20敗、8割6分の歴代トップクラスの勝ちっぷりだ。平均13勝の安定感を見せた。

虫垂炎手術のために入院していた病院で71年10月11日、肺動脈血栓症で急逝。県体育館での全勝優勝から85日後、27歳だった。

(1) 愛知県体育館で全勝優勝-玉の海と名古屋場所

2024年06月12日
初の全勝優勝を達成し、賜杯を手に喜ぶ玉の海=1971年7月18日、愛知県体育館で

大相撲名古屋場所が2024年7月14日、初日を迎える。愛知県体育館(ドルフィンズアリーナ)での開催は最後で、25年、新築のIGアリーナに移転する。

日本相撲協会ウェブサイトによると、江戸時代の力士から照ノ富士までの横綱73人のうち、愛知県出身者は明治・大正期の大錦(弥富市)と玉の海(蒲郡市、1944~71年)だけ。中でも、玉の海は北の富士と「北玉時代」を切り開いた矢先の1971年10月11日、現役横綱のまま27歳で亡くなった。「悲劇の力士」として多くのファンの記憶にとどめている。

その夭折の力士が幕内全勝優勝を果たしたのが県体育館。肺動脈血栓症で急逝したのは優勝パレードから3カ月後のことだ。

50年余を経て同級生らが「第51代横綱玉の海を愛する会」として功績を受け継ぐ活動を始めている。幕内での15勝のほか、序二段でも県体育館への移転前、金山体育館で全勝している。名古屋場所での全勝への道のりを会員の思い出からたどる。

※連載「玉の海と名古屋場所」は、第51代横綱玉の海を愛する会、相撲史研究家・杉浦弘さんへの取材をもとに、日本相撲協会のウェブサイト、中日新聞・中日スポーツ記事などを参考にしました。写真は、第51代横綱玉の海を愛する会、杉浦さんに提供していただきました。