「柔道は敵なしだったが、相撲は強くなかった」。「第51代横綱玉の海を愛する会」会長の荒島伸好さん(80)=愛知県蒲郡市=は中学時代の玉の海をはっきりと覚えている。
「走るのは僕の方が速く、相撲も僕が上。でも善竹は水泳はじめ、運動神経は抜群。スポーツ万能だった」
善竹正夫は中学時代の玉の海。小学6年のとき、地元相撲大会で優勝した荒島さんは蒲郡中で相撲部へ。玉の海は柔道部に入部した。
部員50人ほどを抱える県内強豪の柔道部。玉の海は柔道部主将として大所帯を率いた。柔道部顧問の河原照夫教諭は「50人の部員をわずか10分ぐらいで片づけた」と語っている。天性の足腰のばねで県内に並ぶ者はいなかったという。
中学3年では県内中学の大会で団体準優勝。優勝は東海中(名古屋市)。主将同士の一騎打ちで玉の海は数秒で相手主将を投げ飛ばした。
荒島さんは「柔道で個人戦があれば絶対に優勝していた」。愛知の柔道界も「善竹に敵なし」と注視した。蒲郡中に稽古をつけに来た東海高柔道部員は玉の海をスカウト。同高に進学する準備も進んでいた。
そんな玉の海を蒲郡中相撲部は助っ人として招いた。柔道猛者は1958(昭和33)年8月、県中学校総合体育大会の相撲でも個人の部3位に勝ち上がった。
実力を耳にしたのちの片男波親方が玉の海をスカウト。蒲郡中校長も勧めた。玉の海は横綱を目標に河原教諭に「ひと一倍稽古する、兄弟子のいいつけを守る」など「五か条」の誓いを立てた。「活躍して母を楽にさせたいとの思いが強かったのでしょう」。相撲部主将だった荒島さんは、同級生の思いを代弁した。
蒲郡南部小4年のときに転入してきた玉の海、荒島さんは蒲郡中に進み、3年時はクラスメート。それから60年余。荒島さんら同級生は2021年10月、玉の海の没後50年の法要を営み、22年10月、写真展「横綱玉の海展」を蒲郡市博物館で開いた。23年6月には「第51代横綱玉の海を愛する会」を結成。会員約30人が墓参、石碑清掃、遺品収集、展示、相撲観戦で早世の横綱を悼んでいる。