(30) 約束遂げ、花火のように散る-玉の海と名古屋場所

2024年07月24日
1965年から名古屋場所を開催している愛知県体育館(ドルフィンズアリーナ)

「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の梅沢敏郎さん=岐阜市=も、愛知県体育館の名古屋場所に足しげく通った。

「親方らと親しくしていただけた」のは県体育館の思い出。積み上げた相撲の知識に舌を巻く親方、力士も多かった。

プランターの花道を通って場所入りする朝乃山=2017年7月

10年ほど前には、地元の子どもたちが手掛けたプランターの花道が県体育館前に設置された。熱中症が増える前、名古屋場所担当部長の千賀ノ浦親方(元関脇舛田山)が考えたファンサービスだ。

力士がここを通って場所入りし、梅沢さんも「楽しみにしていました」。白鵬や日馬富士、朝乃山らの場所入りをカメラに収めた。

取組前、県体育館内で放送される「相撲錬成歌」に合わせて口ずさみ、気持ちを盛り上げるのは梅沢さんのルーティン。玉の海が最高潮を極めた県体育館で、後進たちの奮闘を応援している。

愛する会の葛谷充代さん(66)=愛知県一宮市=は「優勝パレードで玉の海がオープンカーに乗り込んだ正面だけは残してほしい」。初恋の思い出が消えようとしていることに心を痛める。

玉の海が活躍したのは、名古屋場所の歴史67年の序盤13年。初土俵3場所目を2年目の金山体育館で、関取で県体育館1年目を迎えた。

ひと一倍、稽古し、横綱になると蒲郡中時代に誓った玉の海―善竹正夫は、1971年、県体育館で横綱として全勝。体を酷使して約束を果たし、花火のように散った。

2025年から、名古屋場所を開くIGアリーナ(愛知国際アリーナ)

2025年、名古屋場所は県体育館からIGアリーナ(愛知国際アリーナ)に移転する。梅沢さんは「新アリーナでも力士と触れ合える場所をつくってもらえたら」。玉の海や相撲からもらった一喜一憂を多くの人と共有したいと願っている。

終わり

(29) 仕事切り上げ、県体育館通う-玉の海と名古屋場所

2024年07月23日
名古屋場所が移転した愛知県体育館で行われた最初の土俵祭り。この年から千葉さんは名古屋場所に通い詰めた=1965年6月

「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の千葉東さん(78)=愛知県岡崎市=は熱烈な相撲ファン。名古屋場所が愛知県体育館に移転した1965(昭和40)年から10年以上も名古屋場所に通い続けた。

宮城県に生まれ、18歳で名古屋市中区の医療衛生機器メーカーの営業職に就いたのは偶然だった。

会社は県体育館から10分ほど。「当時の名古屋場所は午後5時になると無料で開放されました」。仕事を早めに終え、名古屋場所中、ずっと通った。市電が走っていたころだ。

「小さいころから相撲が好きで好きで」。名古屋場所が相撲熱を押し上げ、70年に岡崎市に転勤した後も週末を楽しみにした。

1976年4月に愛知県碧南市で青葉山と納まった写真を手にする千葉東さん=2024年4月、愛知県蒲郡市で

小結だった青葉山(1950~97年)は親戚で、実家は隣。愛知県で再会し、励ましたこともある。

県体育館での観戦は「何よりの癒し。15日間、仕事も一生懸命にがんばれた」。

仕事で蒲郡市も担当し、ここで中学まで暮らした玉の海を身近に感じるように。体に余分な脂肪がない、力強い取組にも魅了されていた。

玉の海の訃報は新城市を回る営業車のラジオで聴いた。その51年後、新城市からの帰りに蒲郡市博物館の「横綱玉の海展」に立ち寄ったのも偶然だ。

展覧会に毎日、通って愛する会に入会。ほかの会員と玉の海のイベントちらしを配り、三河で育った横綱や相撲の魅力を伝えている。

(28) 「棟梁になるまで会わない」-玉の海と名古屋場所

2024年07月22日
「第51代横綱玉の海を愛する会」の(後列左から)河村秀夫さん、梅沢敏郎さん、千葉東さん、(前列左から)福井要人さん、荒島伸好さん、葛谷充代さん=2024年1月、愛知県蒲郡市で

「第51代横綱玉の海を愛する会」会長の荒島伸好さん(80)=愛知県蒲郡市=が蒲郡中同級生、玉の海の大相撲の取組を生で初めて観戦したのは、1960 年代前半の春場所、大阪府立体育会館だった。

玉の海が幕下のころ。荒島さんは大阪の専門学校に通う学生だった。

蒲郡中時代、荒島さんは相撲部主将、玉の海は柔道部主将。テレビで応援していたが、土俵の元クラスメートの勇姿を見て「棟梁になったら対等に会おう。それまでは会わない」。声もかけず、会場を後にした。

中学3年の時、玉の海に相撲の実力を逆転されて以来、もやもやしたものがくすぶり続けていた。

63年秋場所の十両昇進前。玉の海に化粧まわしを贈ろうと同級生で計画した。相撲部顧問だった竹内浩教諭に相談したところ、「その前にやることがあるだろう」。高価な贈り物の前に手紙を書くことを勧められた。

「負けるものか」と建設の仕事にまい進していたころ、訃報が舞い込んだ。「うそだ。信じられん」。大阪の取組が直接、姿を見た最後だった。

初めて県体育館で名古屋場所を観戦したのは1980年代、30代後半になってから。クラスメートはもう土俵にいない。蒲郡中1学年上の若藤親方(元幕内和晃)らと交流し、「力士個人というより、相撲そのもののファンになった」。

2021年10月、墓のある天桂院(蒲郡市)で玉の海没後50年の法要を営んだ。まわしなどの遺品を集め、蒲郡市で公開している。足跡を広く知ってもらうことが、早世したクラスメートの供養だと思っている。

(27) 「功績を残したい」-玉の海と名古屋場所

2024年07月19日
「横綱玉の海展」で化粧まわしを見る玉の海の浴衣姿の玉鷲=2022年10月2日、蒲郡市博物館で

「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の葛谷充代さん(66)=愛知県一宮市=は、県体育館を訪れると、「ここでオープンカーに乗ったんだ」と今も涙があふれてくる。1971(昭和46)年7月18日、名古屋場所の優勝パレードで玉の海が出発した場所だ。

「玉ちゃんにできなかったことをしたい」

葛谷さんは玉の海が所属した片男波部屋の4人を応援。誕生日やバレンタインデーにプレゼントを贈る。名古屋場所前には、知多市の部屋の稽古を訪れ、激励した。

片男波部屋の力士らも玉の海を偉大な横綱として大切に思っている。玉鷲は蒲郡市にたびたび墓参し、2022年10月の「横綱玉の海展」の初日に駆け付けた。

玉の海の反物を入手し、浴衣に仕立てて愛用。玉鷲は22年秋場所の2度目の優勝を「この浴衣のおかげ」と喜んだ。

現役のまま亡くなり、「悲運の横綱」と呼ばれる玉の海。葛谷さんは「悲しいイメージはやめてほしい。こんなに愛された横綱がどこにいますか」。玉の海に直接、会えなかったことが心残りだ。

愛する会の仲間と玉の海の話をすると中学時代の思いがよみがえる。「50年以上もたって玉の海が近づいてきた。玉の海の功績を形にして残すのがこれからの私の人生です」

(26) 祖父に始まった奇縁-玉の海と名古屋場所

2024年07月18日
北の富士、玉の海(玉乃島)の横綱推薦を発表する横綱審議委員会の(右から)舟橋聖一、高橋義孝の両氏=1970年1月

物心ついたころから玉の海を夢中で見ていた「第51代横綱玉の海を愛する会」会員、梅沢敏郎さん=岐阜市。図らずも、名古屋大学生時代の1970年代半ば、高橋義孝教授の授業を受け、相撲話を交わした。

のちに横綱審議委員会委員長を務める高橋教授は、玉の海の実力を買い、横綱昇進を推していた。

玉の海の訃報を受け、「彼ぐらいスピーディーな相撲の取れる力士が彼のほかにいるだろうか。いくら悔やんでも悔やみたりない」。中日スポーツ71年10月12日付に寄稿している。

それから半世紀ほどたった2022年10月、梅沢さんは蒲郡市博物館の「横綱玉の海展」を訪れた。

会場には玉の海の同級生だった荒島伸好さん(80)=愛知県蒲郡市=がいた。「蒲郡中、相撲、柔道」。祖父が話していた蒲郡中相撲部の元主将だった。

愛する会副会長の福井要人さん(80)=愛知県蒲郡市=も玉の海のクラスメート。福井さんが所属する吹奏楽部の練習場は土俵の上階にあった。

3年連続全国優勝した楽団。中学3年の荒島さん、玉の海が稽古する土俵に、管弦楽曲「ペルシャの市場にて」のノスタルジックな音を響かせた。

梅沢さんが3歳ごろから、祖父から聞いていた蒲郡中の生徒たち。玉の海が奇縁をつないだ。

(25) 蒲郡の海岸にラブレター-玉の海と名古屋場所

2024年07月17日
クラスメートの荒島伸好さんに自分のカメラを渡し、ポーズをとる中学3年の玉の海=1958年、蒲郡市の竹島で

「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の葛谷充代さん(66)=愛知県一宮市=は玉の海が亡くなった翌1972(昭和47)年、蒲郡市の竹島の海岸に、玉の海へのラブレターを埋め、手を合わせた。

「故郷の海に埋めれば、魂に届くはず」。中学2年で、たまたま遠足で訪れた竹島。葬儀に行けず、心に区切りをつけられずにいた。

以来、半世紀。玉の海と縁遠い生活を送っていたが、2022年10月、再び蒲郡を訪れる。市博物館の「横綱玉の海展」開催の記事が目にとまり、足を向けた。

ボウリングの服は、着用している姿をテレビで見たことがある。まげを見ると胸が締め付けられた。化粧まわし、愛用の座布団…。涙があふれた。

玉の海、荒島伸好さん、葛谷充代さんが訪れた竹島=2024年1月、蒲郡市で

展覧会を主催したのは玉の海のクラスメートだった荒島伸好さん(80)=蒲郡市=ら。

展覧会で出会い、中学時代の玉の海のことを教えてもらった。手紙を埋めた竹島に、玉の海が荒島さんとよく来ていたと知ったのは最近のことだ。

中学3年の玉の海は荒島さんに自分のカメラを託してポーズをとった。潮干狩りも好きだったという。「早く来いと引っ張られるようでした」。葛谷さんと玉の海の空白の時がつながった。

(24) 「あと半歩で双葉山の域」-玉の海と名古屋場所

2024年07月16日
1971年秋場所千秋楽で、北の富士と突っ張り合う玉の海(写真左の【右】)。この後、北の富士(写真右の【右】)に上手投げを決められ、本場所最後の取組は黒星に終わった=1971年9月26日、東京・蔵前国技館で

亡くなる前年、1970(昭和45)年の名古屋場所で成績が振るわず、奮起した玉の海。戦前、69連勝の大記録を打ち立てた横綱、双葉山を意識するようになったようだ。71年初場所のころには、評価が大きく高まった。

全勝優勝した71年名古屋場所では「右四つ、左上手が完璧に近く身につきました。あと半歩で双葉山の域でした」。「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の梅沢敏郎さん=岐阜市=は、玉の海の取組を脳裏に刻む。

最後の71年秋場所は12勝3敗。14日目、幕内栃東をつり出したのが最後の白星となった。千秋楽では、北の富士と激しい突っ張り合いを繰り広げ、最後に上手投げを決められた。北の富士は全勝で優勝している。

この場所の玉の海は虫垂炎に苦しみ、ろっ骨を骨折しながらも12勝で優勝に準ずる成績。梅沢さんは「この時期の盤石ぶりとはほど遠く、生気がなく、弱々しさが感じられました」と振り返っている。

この後、10月2日には大鵬の引退相撲で太刀持ちを担い、4日には仲のよい浅瀬川の引退で北の富士と組んだ。盲腸切除のために入院し、6日に手術。退院目前、11日に世を去った。

「手術となると本場所を休まなければならないこともある。責任感の強い玉の海は、皆に迷惑をかけないよう引退相撲が済むまで注射で散らして手術を延ばしました」。

相撲、仲間を一番に考え、自分のことは後回し。少なくとも5カ月、盲腸を切らずに悪化させた。

(23) 「無理を重ねすぎた」-玉の海と名古屋場所

2024年07月12日
亡くなる半年余前、1971年春場所で玉の海は得意のつり出しで北の富士に白星。5度目の優勝を果たした=大阪府立体育会館で

日本中に横綱の訃報が駆け巡った1971(昭和46)年10月11日、「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の梅沢敏郎さん=岐阜市=は小雨の中をそぞろ歩き、寂寥感にさいなまれていた。高校1年だった。

学校から帰ると祖父が「玉の海が死んでしまった」。梅沢さんは表情を変えず、悲しみを押し込んだ。しかし、1人になると、10数年も夢中になった勢いある取組が駆け巡った。

61年に横綱に昇進した柏戸、大鵬の「柏鵬時代」、続く70年からの「北玉時代」。祖父の見込んだ玉の海が横綱に昇進し、角界を導き始めたばかりだった。

愛する会会長の荒島伸好さん(80)=愛知県蒲郡市=も「技の玉の海とスピードの北の富士。2人の取組は面白く、わくわくしました」。

玉の海の急死を聞き、駆けつける大鵬=1971年10月

玉の海の突然の死に、梅沢さんは「さもありなん。あれだけ無理を重ねれば仕方がない。がんばりすぎです」。けが、病気に苦しんだ数年間を思いやった。

1970年名古屋場所でひと桁勝利に落ちた後の最後の1年余は「鬼気迫る、ただならぬ雰囲気を漂わせていました」。何度も横綱昇進を逃した悔しさ、大鵬戦のプレッシャー。体だけでなく、心もむしばまれていた。

「心身ともに限界近い。どこかでつぶれないだろうか」。梅沢さんにとっては想定された結末だった。

(22) 北の富士「大横綱になったはず」-玉の海と名古屋場所

2024年07月11日
大鵬の引退相撲土俵入りで、太刀持ちを務める玉の海(左)。この9日後に世を去った。露払いは北の富士(右)=1971年10月2日、東京・蔵前国技館で

北玉時代の一翼を担った北の富士は、1971(昭和46)年10月11日午後、巡業先の岐阜県羽島市にいた。

「信じられない。これから北玉時代を築こうと思っていたのに」。「島ちゃん」と呼んだ2歳年下の突然の訃報に、体を震わせ、涙をぬぐい続けた。

同じ時期に大関の3年余を過ごし、横綱に同時昇進。プライベートで頻繁に会うことはなかったが、尊敬し合う好敵手だった。

玉の海(左)は虫垂炎をごまかし巡業に参加した。右は杉浦弘さん=1971年、静岡県浜松市で

相撲史研究家の杉浦弘さん(82)=静岡県磐田市=は浜松市に巡業に来た玉の海に会いに行った。亡くなる数カ月前とみられる。

肝臓疾患、痛風、虫垂炎を患っていたはずだが、にこやかに写真に納まっている。心技体のそろった横綱。「玉の海が生きていたら、北の富士の10度の優勝を阻んでいた」と杉浦さん。

北の富士は、玉の海没後50年の共同通信インタビューで「人の死をあれだけ悲しんだのは玉の海しかいない。あそこまで私は人前で泣いたことがない。あれからの私はがっくりと闘争心がなくなり、立ち直れなかった」と語っている。

玉の海が生きていたら、「北玉時代じゃなくて、玉の海時代になっていたかもしれない」とも。中日スポーツには「おそらく大横綱になっていたでしょう」と寄稿した(2020年6月5日付)。北の富士は心に穴をあけたまま、74年7月に引退した。

(21) 盲腸で全勝、骨折で12勝-玉の海と名古屋場所

2024年07月10日
1971年秋場所で、盲腸と骨折で苦しむ中、大関清国をひき落とす横綱玉の海(左)。生涯最終盤の白星=東京・蔵前国技館で

玉の海は亡くなる5カ月前、1971(昭和46)年夏場所中に虫垂炎の痛みを訴えた。発症したのはこの夏場所か、それ以前か。発症しては投薬で処置、を繰り返した。

「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の梅沢敏郎さん=岐阜市=は「手術となると本場所、巡業の出場に影響する。責任感の強い彼は極力、迷惑をかけないよう延ばしました」。

59年の初土俵から、休場は1日もない。「手術の必要性を感じながらも、体にメスが入ることを嫌いました」。手術で傷をつけると力が出なくなる、と考えていたようだ。

71年夏場所で、横綱大鵬は序盤から尻をついて2敗を喫し、引退した。優勝は全勝の北の富士。玉の海は腹部の痛みをごまかしながら、12日目まで無敗で優勝を争ったが、千秋楽で北の富士に寄り切られ、13勝2敗で終えた。

次の名古屋場所での最初で最後の幕内全勝も、虫垂炎を患ったまま。

名古屋場所に続く8月、夏巡業先の秋田県で救急搬送された。梅沢さんが後年、付け人に聞いたところによると、虫垂炎で搬送中、点滴が外れ、救急車車内に血があふれたという。

玉の海は「東京で入院したい」と戻った。しかし、手術したのは1カ月以上後の秋場所後だった。

71年秋場所では、肋骨骨折も加わった。満身創痍の千秋楽で北の富士に上手投げを決められ、12勝3敗。北の富士が全勝した。玉の海の優勝に準ずる成績は12度目。人生最後の本場所は黒星に終わった。

名古屋場所全勝直後の71年7月18日、「病気に負けていった人も多いからそういう点にも注意しなくては」と語ったのは自ら戒めるためだったのだろう。

搬送されても治療を先延ばしし、盲腸の痛み、骨折に苦しんで優勝を争い、12勝を挙げた。盲腸を切ったのは秋場所後。その入院中、血栓が肺動脈に詰まったのが直接の死因となった。

(20) 肝臓障害、痛風で14勝-玉の海と名古屋場所

2024年07月09日
1970年九州場所、1敗同士の優勝決定戦で、大鵬を寄り切り、秋場所からの連覇を決めた玉の海(手前)=福岡国際センターで

足だけではない。玉の海はひじのけが、さらに痛風、肝臓障害にも悩まされた。

大関昇進後1年目の1967(昭和42)年秋ごろまで、2桁勝利に届かなかったのは、「地力不足に、ひじのけがも影響しました」と「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の梅沢敏郎さん=岐阜市。

飲酒はしなかったが、肝臓障害にも悩まされた。大関2、3年目は2桁勝利へと力をつけるが、69年夏場所8勝7敗、名古屋場所9勝6敗とひと桁に戻った。梅沢さんは「肝臓疾患にひいきとの律儀な付き合いで精彩がなかった」。取組以外のことに翻弄されていたようだ。

横綱昇進1年目の70年秋場所、続く九州場所を連覇し、絶好調を迎えた玉の海。ところが翌71年初場所、左足に包帯を巻いて登場した。

2年前のかかとの後遺症ではない。場所3日前に、痛風がひどくなり、歩けなくなっていた。それでも、負担をかけないよう立ち合いでさっと跳び、初日から白星を挙げた。

1971年初場所、1敗同士の優勝決定戦で、水入り後、大鵬に寄り切られ、優勝を逃す玉の海(右)=東京・蔵前国技館で

痛みは徐々に和らいだのだろうか。この初場所中、取り口に安定感が増し、北の富士を上手投げ。14日目まで連勝した。しかし千秋楽で1敗の大鵬に敗れ、優勝決定戦へ。水入り後、寄り切られた。大鵬の最後の優勝だった。

玉の海は痛風で優勝に準ずる14勝を挙げ、大鵬の優勝パレードに加わり、祝宴に参加。その深夜に走り込みをこなした、という話もある。「なんのこれしき」と自分を奮い立たせていた玉の海。心身の負担は「壮絶なものだったと思います」と梅沢さんは考えている。

(19) 温泉で治療、願をかける-玉の海と名古屋場所

2024年07月08日
1969年初場所で横綱大鵬にすくい投げを決められる大関玉の海(玉乃島、左)。この取組で左かかとをけがした=東京・蔵前国技館で

盲腸だけではない。玉の海は大関に昇進したころから、心身不調に悩まされた。

1969(昭和44)年初場所。12勝1敗の大関玉の海は14日目、無敗の横綱大鵬にすくい投げで下された。千秋楽を残して、大鵬の優勝、玉の海の優勝に準ずる成績が確定。このとき、玉の海は左かかとを強打した。これが再び綱を遠のける。

翌日の千秋楽の相手は4敗の北の富士。2敗の玉の海は優勝争いに頻繁に加わってきた実績から、勝てば横綱昇進が確実とされていた。年齢、初土俵が2年上、大関同士の北の富士を追い越せるか。優勝が大鵬に決定した後、2人に関心は集まった。

しかし、かかとのけがで思うように動けない。北の富士の突き出しを受け、3敗目を喫した。68年夏場所初優勝後の横綱審議委員会による昇進見送りに続き、玉の海から綱がすり抜けた。

初場所後の稽古もままならない。玉の海は愛媛・道後温泉で治療に専念した。

「身延山、成田山にお参りし、支度部屋に入る前には、蔵前国技館の神社にただずむ姿がよくみられました」。20代半ば、玉の海の苦悩を「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の梅沢敏郎さん=岐阜市=はおもんぱかる。

横綱見送りのショックは長引き、「わしならとてももたない」。片男波親方も嘆いた。

(18) 盲腸退院直前、「死ぬわけがない」-玉の海と名古屋場所

2024年07月05日
名古屋城前のパレードで手を振る玉の海=1971年7月18日

玉の海の全勝優勝から85日後の1971(昭和46)年10月11日。愛知県一宮市の中学1年だった「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の葛谷充代さん(66)は男子生徒に言い返した。

「明日、退院する人がなんで死ぬの。死ぬわけがない」。相撲誌を学校に持参するほどの玉の海ファンだった。

「玉の海が亡くなったって、うそだよね、うそだよね」

帰宅後、兄に泣きついた。差し出されたのはテープレコーダー。兄がその日のNHKラジオ放送を録音してくれていた。

「本当だったんだ」。大泣きした。「どうしたらいいの」。毎日のように写真を見て、テープの肉声を聴き、暗闇をさまよった。

葛谷さんがいつもかばんに入れている玉の海の写真

玉の海は71年秋場所後、入院し、盲腸切除。退院を前にした10月11日、起床後に洗面して病室に戻った後、胸の苦しみでベッドに倒れた。

「まじめで律儀な性格。まだ頑張れると自分を奮い立たせた。柔道界にいれば、今も生きていたのに」

角界での活躍より、命を大切にしてほしかった―。葛谷さんはいつも持ち歩いている玉の海の写真に語り掛けている。

(17) 「大横綱に近づきたい」-玉の海と名古屋場所

2024年07月04日
玉の海の全勝優勝を報じる中日スポーツ1971年7月19日付1面。玉の海は愛知県体育館前から優勝パレードに出発した

1971(昭和46)年7月19日付の中日スポーツ1面は「玉の海、宿願の“全勝“」。生涯で最後、6度目の優勝は名古屋場所の愛知県体育館だった。

14連勝して千秋楽だけ落とした場所が70、71年に3連続。玉の海と北の富士が拮抗し、互いに阻み、阻まれた。70年九州場所、71年初場所には14勝。いずれも千秋楽に大鵬が壁となり、全勝を止められた。玉の海は「全勝は難しい」と話している。

届きそうで届かない曇りのない優勝。71年名古屋場所前には全勝への意欲を口にする。ご当所での15勝は「宿願」以上のものだったにちがいない。

「本当にうれしいよ」「簡単なものじゃない。大変だった」「右四つの自分の相撲がとれた」。県体育館前で優勝パレードの車に乗り込み、満面の笑みで両手を挙げて出発した。

この日、「大横綱に少しでも近づくように努力する」と次の目標も語った。優勝祝勝会では「最良の日だよ」。12年前の大願を成就させた青年のほおに涙が流れた。

(16) 白星のたびに「私も強い」-玉の海と名古屋場所

2024年07月03日
1970年春場所を前に、横綱昇進の番付を見て喜ぶ玉の海(玉乃島)

1970(昭和45)年春場所、玉の海が北の富士とともに横綱に昇進し、「北玉時代」が幕を開けた。柏戸は69年に引退し、大鵬も全盛を過ぎていた。70、71年の多くは玉の海、北の富士が優勝を分け合い、2人の取組に視線が注がれた。

「自分も強くなったような気持ちになりました」。「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の葛谷充代さん(66)=愛知県一宮市=は玉の海が白星を挙げるたびに喜んだ。

名古屋場所千秋楽の横綱対決で、北の富士を寄り切り、全勝優勝を決める=1971年7月18日、愛知県体育館で

71年夏場所で大鵬が引退し、北の富士が全勝優勝した。

そして次の名古屋場所、7月18日の千秋楽結びの一番の相手は北の富士。2分40秒の大一番の末、左四つから北の富士を寄り切った。

拍手、ため息、歓声が交錯する中、ようやく15個目の白星を挙げた。観客は立ち上がり、惜しみない喝采を送った。

中学1年の葛谷さんは台所の母に「玉ちゃん、全勝優勝だよ」。ぴょんぴょん跳び上がって喜んだ。

(15) 初恋の力士をスクラップ-玉の海と名古屋場所

2024年07月02日
関脇同士、名古屋場所前に歓談する北の富士と玉の海(玉乃島、右)=1966年

玉の海に思いを寄せる少女が愛知県一宮市にいた。「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の葛谷充代(くずや・みちよ)さん(66)。「どこが好きかって? 顔、体型。相撲のうまさが違うんです」。テレビの向こうの玉の海が初恋の人だ。

小中学生のときにつくった玉の海のスクラップと葛谷充代さん=2024年4月、愛知県蒲郡市で

「強い力士がいるよ」。相撲ファンの6歳上の兄に玉の海を教えられた。

玉の海の活躍を報じた中日新聞記事をスクラップし始めたのは小学6年、1970(昭和45)年のころ。「玉の海、愛知県蒲郡市出身」とテレビで呼び上げられるたびに胸を高鳴らせた。

ライバルは北の富士。65年に名古屋場所が県体育館に移転した。柏戸、大鵬らが綱を張る中、玉の海、北の富士が頭角を現した。

66年、県体育館で2度目の名古屋場所では、互いに10勝目をかけて北の富士と対戦。玉の海は右上手投げを決められ、北の富士が先に大関に昇進した。次の秋場所後、玉の海が追いつく。

スピードのある北の富士と、力強く技を繰り出す玉の海。昭和の大横綱、大鵬に向かって若手2人が駆け上がった。中でも地元出身の玉の海に葛谷さんはくぎ付けになった。

(14) 明るくまじめ、母思い-玉の海と名古屋場所

2024年07月01日
銭湯でおどける玉の海

玉の海は16歳で幕下に昇進した。この時期の玉の海について「悪く言えば、半端相撲ともいわれていました」と「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の梅沢敏郎さん=岐阜市=は振り返る。

足技、上半身に頼った突っ張りを繰り出し、評価を落とした。

梅沢さんは玉の海を大正時代の関脇、両国(1892~1960年)に重ねる。やぐら投げ、掛け投げを大胆に決めた90キロ。体格や取組スタイルが似ている。

両国は1914(大正3)年5月に新入幕優勝を果たしている。2024年春場所で尊富士がつないだ記録だ。

玉の海は持ち前の運動神経のよさに、愛される性格だった。「明るく、さわやか。気さくで人間性がある上、根っからまじめ」。小中学校の同級生で、愛する会会長の荒島伸好さん(80)=愛知県蒲郡市=は語る。

北の富士も「人間性が素晴らしかった。明るいし、さっぱりしていた。考え方が若かった」。

母親に額皿、手形の色紙を贈り、蒲郡市に家を建てた。母が家計を担っていた中学時代にはすし店でアルバイトも。仕送りもした。サイン色紙には「努力」「根性」。ファンレターを大切に保管した。

「体ができてくると、右四つ、左上手の盤石の相撲を取るようになりました」と梅沢さん。柔道の名残のある半端相撲を脱し、堂々とした取り口を身につけていった。

(13) 細身が巨漢倒す-玉の海と名古屋場所

2024年06月28日
土俵入りを披露する横綱玉の海。このころには体重130キロを超えた=1970年6月、名古屋・熱田神宮で

技だけではない。「素質と努力があった」と話すのは「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の梅沢敏郎さん=岐阜市。入門時の体重は67キロ。稽古と食事で横綱時代には135キロの体をつくった。

玉の海が入門したころの新弟子は千里岩、栃忠、義ノ花ら巨漢が目立った。90キロあれば大型新弟子といわれた時代。国体出場の千里岩は110キロ、栃忠も高校覇者で125キロ、義ノ花は150キロあったとされる。未来の大関、横綱と目された。

しかし梅沢さんが注目したのは、大きすぎない力士だ。

1959(昭和34)年、金山体育館が本場所となって2年目の名古屋場所。初土俵から2場所後の玉の海は巨漢、栃忠を破り、序二段で全勝優勝を決めた。

星取表を読み込んでいた4歳の梅沢さんは「鳴り物入りの有望力士を負かし、玉の海にとっては快哉を叫ぶ一番だったと思います」。自分の目に狂いはない。少年はますますのめり込んだ。

(12) 助っ人に海賊驚く-玉の海と名古屋場所

2024年06月27日
関脇の玉の海(玉乃島、右)が大関豊山に白星。柔道で培った内掛けも得意だった=1966年5月、東京・蔵前国技館で

細身のトンボが横綱まで登り詰めたのはなぜなのか。蒲郡中時代の経験がある。

玉の海は柔道部主将でありながら相撲でも実績を残した。助っ人相撲部員として短期間の稽古で、愛知県中学校総合体育大会で3位を勝ち取った。

このときの相撲部顧問は竹内浩教諭。海軍の相撲でならしたことから「海賊」と呼ばれていた。

相撲部主将だった荒島伸好さんは柔道部主将の玉の海に相撲の稽古をつけた=2024年1月、愛知県蒲郡市で

相撲部主将だった「第51代横綱玉の海を愛する会」会長の荒島伸好さん(80)=愛知県蒲郡市=は「普通はすり足の基礎から教えるところを、竹内教諭は引きつけ、寄り身をいきなり教えました」。

相手の体を自分の腰に引き寄せる柔道に共通する技術。玉の海の引きの強さに海賊は目を見張った。

玉の海は荒島さんと繰り返し練習し、「引きつけ、つり出しを完全に身につけました」。

柔道の技と抜群の運動神経。「内掛けで相手に足を入れれば勝てる。足腰も強く、天性のばねがありました。腰で相手の体を支えて振り回しました」

得意は内掛け、外掛け、つり出し。まわしをつかみ上げ、運び出すつり出しは芸術的といわれた。巨漢に臆せず仕掛けた。中学3年のとき、荒島さんと稽古に明け暮れたのが原点だった。

(11) 歴代上位の勝率8割6分-玉の海と名古屋場所

2024年06月26日
北の富士を豪快に上手投げ。玉の海(手前)はこの初場所で1敗同士の優勝決定戦に持ち込むが大鵬に敗れた=1971年1月、東京・蔵前国技館で

玉の海の横綱時代は短い。1970(昭和45)年から71年の在位10場所で優勝4度、優勝に準ずる成績は5度。9場所で優勝争いに加わる密度の高い1年半だった。

在位中の勝率8割6分は、白鵬には及ばないが、大鵬、千代の富士、貴乃花を上回り、歴代トップクラス。平均13勝で、安定の強さを示した。

例外は70年名古屋場所。横綱昇進後、13勝、14勝が常だった玉の海は、名古屋場所だけひと桁。金星2つを奪われ、9勝6敗のクンロクだった。

「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の梅沢敏郎さん=岐阜市=も「勝ち越していますが、抜群というほどの成績ではありません」。名古屋場所での不振を指摘する。

役力士としての玉の海は、名古屋場所計7度のうち、6度が10勝以下。新関脇の65年名古屋場所で6勝9敗で役力士として自身ワースト2。9勝6敗が4度、68年はかろうじて10勝5敗だった。

愛知県体育館での名古屋場所で成績が落ちたのは「ひいき筋との付き合いを律儀に行ったせいでしょうか。体調悪化に拍車をかけました」。

名古屋場所や蒲郡帰省時に、なじみのすし店、中華店に支援者と訪れた。選挙応援に駆け付けることもあった。気を回しすぎる性格が災いした。

「最後の名古屋場所前に親方が付き合いを制限しました。その結果、全勝優勝につながりました」

最後の71年名古屋場所は、千秋楽の横綱決戦で北の富士を寄り切って15勝。ようやく、黒星なしの全勝優勝を手に入れた。

(10) 北玉が切磋琢磨-玉の海と名古屋場所

2024年06月25日
1970年初場所千秋楽、玉の海(玉乃島、手前)が北の富士をつり出し、2敗同士に持ち込む=東京・蔵前国技館で

北の富士は1966(昭和41)年秋場所で、玉の海は次の九州場所で大関デビューした。北玉時代の前哨が始まった。

玉の海は1桁白星で奮わなかった大関1年目から一転、67年11月から見違えるように力を出し、2桁勝利が定着した。

このころの北の富士は、横綱昇進を後ろ向きにとらえていた。成績を維持しなければならない横綱の重圧を間近に見ていたからだ。

69年名古屋場所。北の富士に火がつく。新大関の清国が初優勝し、綱とりか、と騒がれた。北の富士は「追い越されてたまるか」と目覚める(東京中日スポーツ2010年10月27日付寄稿)。

続く、秋場所で玉の海、九州場所で北の富士がそれぞれ2度目の優勝を遂げた。

そして70年初場所。横綱を狙う大関4人から2人が抜け出る。千秋楽では北の富士が13勝1敗で王手をかけ、玉の海が2敗で追った。玉の海は北の富士を豪快につり出し、2敗同士に持ち込んだ。

しかし優勝決定戦では、つり上げられそうになった北の富士が玉の海に右外掛けを決める。「1日に2番も負けるわけにはいかない」(同)。奮起した北の富士が優勝。玉の海は7度目の優勝に準ずる成績に甘んじた。

このときまでの北の富士の幕内優勝は3回、玉の海は2回。2人は3年余、大関にとどまったが、70年初場所後、ようやく横綱に昇進。北玉時代に突入した。

(9) クンロクで伸び悩む-玉の海と名古屋場所

2024年06月24日
片男波親方に激励される玉の海(玉乃島、左)。平幕に下がることもあった=1965年1月

玉の海の大関1年目の1966(昭和41)、67年は大鵬、柏戸が優勝を奪い合った時代。玉の海は9勝6敗―クンロクが多く、伸び悩んだ。

「大関になって安心したのでは」と推測するのは、相撲史研究家の杉浦弘さん(82)=静岡県磐田市。

帰りを待ち構えた片男波親方が玉の海を殴り、その後、抱き合って泣いたという。「玉の海は夜遊びするようになりました。殴り合った後、目を覚まし、成績を上げます」

躍進し始めたのは大関2年目、67年九州場所。68年春場所までの3場所連続で優勝争いに絡み、68年夏場所は13勝2敗。ついに幕内で初優勝した。

北の富士は67年春場所で初優勝していたが、この時期、玉の海が躍進。綱との距離がぐっと縮まった。北の富士は「先を越されたかと観念」したが、「横綱審議委員会は『ノー』という答申をしてお流れ」になったと記している(東京中日スポーツ2010年10月27日付)。

この68年夏場所は大鵬、柏戸の2横綱が休場しており、2敗は平幕からだったことが影響したようだ。次の名古屋場所で玉の海は10勝どまり。結局、20場所、3年余を大関として過ごすことになる。

(8) 横綱を連覇、大関昇進-玉の海と名古屋場所

2024年06月21日
1965年初場所初日、新小結の玉の海(玉乃島、手前)は横綱大鵬を内掛けで攻め白星(左)。その後、大鵬を引っ張り上げた=東京・蔵前国技館で

三役昇進を果たした1965(昭和40)年初場所。玉の海は初日にいきなり、得意の内掛けで、初顔合わせの横綱、大鵬から白星を奪った。

2日目以降は不振で、5勝10敗と玉の海にとってワーストに近い場所となったが、「倒れた大鵬を起こして、ぺこりと頭を下げた。心技体が素晴らしかった」。「第51代横綱玉の海を愛する会」会員の横田英夫さん(73)=愛知県蒲郡市=は振り返る。

愛知県体育館1年目の名古屋場所で関脇の玉の海(玉乃島、手前)が横綱大鵬を下手投げで白星=1965年7月

愛知県体育館開催初年の65年名古屋場所は関脇で臨み、横綱の柏戸、大鵬を破った。しかし、下位に負け、6勝9敗。平幕に陥落も、力をつけて佐田の山、栃ノ海ら横綱を倒し、毎場所のように殊勲賞など三賞を受けるようになった。

翌66年、大関昇進を懸ける玉の海、北の富士の取組は激しさを増す。名古屋場所千秋楽、9勝5敗で並ぶ関脇の2人。

「彼(玉の海)が下手投げを打ち、私は上手投げを打ち返した。2人の体がパーッと二つに割れ、土俵下に落ちて物言い」となった(共同通信による北の富士インタビュー)。結果は軍配通り、玉の海が6敗目を喫する。

北の富士は10勝で、場所後、大関に昇進。「負けていたら、その後はどうなっていたか。大事な相撲だった」(同)。北の富士はこの取組を記憶に残る一番に挙げている。

次の秋場所は玉の海が勝利。北の富士の脚を跳ね上げ11勝した。玉の海は北の富士に1場所遅れて秋場所後、大関に昇進した。

(7) 「南洋場所」で活躍-玉の海と名古屋場所

2024年06月20日
名古屋場所開催中の金山体育館で氷柱で涼をとる子どもたち=1963年

1958(昭和33)年、名古屋場所が準本場所から本場所に格上げされ、引き続き、金山体育館で開催された。冷房はなく、大きな氷柱が置かれ、ボンベが酸素を噴出。あつい空気が封じ込められ、「南洋場所」と呼ばれた。

金山時代も玉の海は「足腰が強く、相撲センス抜群」と目された。60年には、体育館の天井窓が豪雨で壊れ、観客は傘を差して観戦した。三段目の玉の海はこの場所を3勝4敗で負け越している。

58、59年にはテレビ局が次々と開設され、プロレス、相撲、野球が人気を集めた。61年に柏戸、大鵬が横綱になり、「柏鵬時代」に突入。「巨人、大鵬、卵焼き」が流行語となった。

玉の海は2桁の勝ち星を挙げるようになり、64年春場所で新入幕を果たした。前頭6枚目で迎えた同年の最後の金山体育館では、8勝7敗で勝ち越し。秋には東京五輪が開催され、日本中に希望と活気があふれた。

(6) 締まった体型 少年を魅了-玉の海と名古屋場所

2024年06月19日
玉乃島を名乗っていた三段目時代の玉の海。初土俵から1年半、細身で白星を重ねた=1960年9月、東京・蔵前国技館の支度部屋で

岐阜市では、「第51代横綱玉の海を愛する会」会員で岐阜市立女子短大名誉教授の梅沢敏郎さん(英語学)が「相撲は下のほうが面白い」と相撲誌を日がな一日、眺めていた。

このとき、梅沢さんは3歳ごろ。食卓で祖父が「蒲郡中の柔道、相撲は素晴らしい」「善竹少年は強い」と話すのを聞いていた。

祖父は岐阜県の中学校長。県教育委員会在籍時代には、日本学校安全会法成立(1959年公布)、児童・生徒の学校安全会設立に向け、愛知県の学校も視察していた。

祖父の印象に残ったのが蒲郡中。柔道部の善竹正夫―玉の海が刻み込まれた。早熟な梅沢さんは相撲誌を読み込み、漢字を相撲文字で覚えた。祖父から土産でもらったセルロイド力士人形で取組を再現した。

取り口、体格、性格を見比べて、応援する力士を下位から絞り込む。梅沢さんの好きなのはソップ型。筋肉で締まった太すぎない力士だ。59年7月、序二段で全勝優勝した玉の海を「細くて、ガリガリ」と見ていた。

柔道に通じる大胆な足技にも魅了された。祖父も注目した玉の海に親近感を抱き、番付が上がるのが楽しみになった。一方で、幕内優勝するような体つきではないとも達観していた。

(5) 金山で序二段全勝-玉の海と名古屋場所

2024年06月18日
初土俵の大阪へと出発する前の玉の海(右端)。母ハルヨさん(左から2人目)を大切にした=1959年

1959(昭和34)年3月、卒業直前の蒲郡中3年7組の生徒たちは蒲郡駅で旅立つクラスメートを見送った。部屋の玉響に付き添われ、初土俵の春場所・大阪に旅立つ玉の海。「第51代横綱玉の海を愛する会」会長で、相撲部主将だった荒島伸好さん(80)も「がんばれよー」と大きく手を振った。

名古屋場所が本場所に加わったのは前年58年7月。金山体育館でスタートした。蒲郡も相撲熱の高い土地柄だ。柔道も相撲も屈指で、将来は警察官になりたい、と将来を語っていた玉の海をのちの片男波親方が蒲郡の知人を通して誘った。

3年時の担任で相撲部顧問の竹内浩教諭は玉の海―善竹正夫が卒業後、相撲の道に進むとクラスで紹介。お別れ会でクラスメートは春日八郎の歌、玉の海は自らギターを弾き、古賀メロディーを披露した。

角界に入ってからもギターやボウリングを楽しんだ

本場所に昇格した58年の名古屋場所では、初代若乃花と栃錦の両横綱が優勝を争い、軍配が上がったのは若乃花。平成の若乃花、貴乃花の伯父だ。玉の海が初土俵を踏んだのはこの「栃若時代」の59年3月の春場所。次の夏場所は序ノ口で6勝2敗。初土俵から3場所目、序二段で迎えた7月の名古屋場所は、277人もがひしめく中、8勝0敗。金山体育館で優勝した。秋場所では三段目。トントン拍子に昇進した。

(4) 柔道猛者が角界へ-玉の海と名古屋場所

2024年06月17日
蒲郡中時代の玉の海。力士を目指すには細身だった

「トンボのように細かった。相撲記者、親方もびっくりしました」

入門時、15歳の玉の海は173センチ、67キロ。今ほどの重量力士は少ないとはいえ、横綱になるとは誰も想像しなかった。

柔道負けなしで、相撲でも県内3位。格闘技の力量、運動神経が角界の目を引いた。

稽古をつけた相撲部主将の荒島伸好さん(80)=愛知県蒲郡市=は小学校時代から中学2年まで、相撲で負けることはかった。しかし59年、中学卒業前の正月を過ぎると玉の海に逆転された。「10番とって1番も勝てない。まったく歯が立たなくなっていました。俺はこれで食っていくと覚悟を決めたのでしょう」。玉の海は入門を決めていた。

荒島さんの周りには、ほかにも角界に入る仲間がいた。蒲郡中相撲部主将だった和晃(かつひかり)は、玉の海の4カ月前に初土俵を踏み、前頭筆頭まで上がった。同じく前頭筆頭だった栃王山は中京商業高(現中京大中京高)で活躍していた。ともに、荒島さん、玉の海の1学年上だ。蒲郡中の1年後輩には、玉葵(幕下)がいた。

下位時代の玉の海

「今の善竹なら栃王山より強いんじゃないか」。栃王山も初土俵は玉の海の4カ月前で、59年1月に序ノ口優勝していた。玉の海は細身だが、力では栃王山に見劣りしない。相撲界でやっていける、と荒島さんはエールを送った。

(3) 同級生らが「愛する会」-玉の海と名古屋場所

2024年06月14日
蒲郡中柔道部で主将だった玉の海(手前)

「柔道は敵なしだったが、相撲は強くなかった」。「第51代横綱玉の海を愛する会」会長の荒島伸好さん(80)=愛知県蒲郡市=は中学時代の玉の海をはっきりと覚えている。

「走るのは僕の方が速く、相撲も僕が上。でも善竹は水泳はじめ、運動神経は抜群。スポーツ万能だった」

善竹正夫は中学時代の玉の海。小学6年のとき、地元相撲大会で優勝した荒島さんは蒲郡中で相撲部へ。玉の海は柔道部に入部した。

部員50人ほどを抱える県内強豪の柔道部。玉の海は柔道部主将として大所帯を率いた。柔道部顧問の河原照夫教諭は「50人の部員をわずか10分ぐらいで片づけた」と語っている。天性の足腰のばねで県内に並ぶ者はいなかったという。

中学3年では県内中学の大会で団体準優勝。優勝は東海中(名古屋市)。主将同士の一騎打ちで玉の海は数秒で相手主将を投げ飛ばした。

荒島さんは「柔道で個人戦があれば絶対に優勝していた」。愛知の柔道界も「善竹に敵なし」と注視した。蒲郡中に稽古をつけに来た東海高柔道部員は玉の海をスカウト。同高に進学する準備も進んでいた。

そんな玉の海を蒲郡中相撲部は助っ人として招いた。柔道猛者は1958(昭和33)年8月、県中学校総合体育大会の相撲でも個人の部3位に勝ち上がった。

実力を耳にしたのちの片男波親方が玉の海をスカウト。蒲郡中校長も勧めた。玉の海は横綱を目標に河原教諭に「ひと一倍稽古する、兄弟子のいいつけを守る」など「五か条」の誓いを立てた。「活躍して母を楽にさせたいとの思いが強かったのでしょう」。相撲部主将だった荒島さんは、同級生の思いを代弁した。

玉の海の石碑を囲む「第51代横綱玉の海を愛する会」の(左端)梅沢敏郎さん、(1人おいて)荒島伸好さん、福井要人さん(右手前)、千葉東さん(右端)ら=2023年10月、愛知県蒲郡市で

蒲郡南部小4年のときに転入してきた玉の海、荒島さんは蒲郡中に進み、3年時はクラスメート。それから60年余。荒島さんら同級生は2021年10月、玉の海の没後50年の法要を営み、22年10月、写真展「横綱玉の海展」を蒲郡市博物館で開いた。23年6月には「第51代横綱玉の海を愛する会」を結成。会員約30人が墓参、石碑清掃、遺品収集、展示、相撲観戦で早世の横綱を悼んでいる。

(2) 「双葉山の再来」が27歳で急死-玉の海と名古屋場所

2024年06月13日
土俵入りする横綱の玉の海

玉の海―善竹正夫(よしたけ・まさお)は1944(昭和19)年、大阪市生野区に生まれた。4人きょうだいの三男。戦災で一家は愛知県豊田市、岡崎市に移り、1953年、蒲郡市に引っ越した。

蒲郡南部小から蒲郡中へと進み、強豪の柔道部へ。県内準優勝をけん引し、相撲でも県大会個人3位。これら活躍から角界に誘われ、59年春場所で初土俵を踏んだ。

養子に入るなどして竹内、谷口へと姓を変え、しこ名も玉乃嶋、玉乃島を経て玉の海に。得意は吊り出し、内掛け、外掛け、上手投げ。柔道の経験を生かした鮮やかな取り口で魅了した。70年初場所後、ライバル北の富士(1942年~)と横綱に昇進。この時期には右四つを完成させ、「双葉山の再来」とささやかれた。

そして71年。玉の海は念願の全勝優勝を果たした。入門4カ月後、59年にも序二段で8勝しており、無傷での優勝は生涯2回。いずれも名古屋場所だった。序二段は金山体育館で、幕内は愛知県体育館だ。

幕内優勝6回。準ずる成績は12回。序ノ口からの通算成績は619勝305敗。横綱在位10場所に限れば130勝20敗、8割6分の歴代トップクラスの勝ちっぷりだ。平均13勝の安定感を見せた。

虫垂炎手術のために入院していた病院で71年10月11日、肺動脈血栓症で急逝。県体育館での全勝優勝から85日後、27歳だった。

(1) 愛知県体育館で全勝優勝-玉の海と名古屋場所

2024年06月12日
初の全勝優勝を達成し、賜杯を手に喜ぶ玉の海=1971年7月18日、愛知県体育館で

大相撲名古屋場所が2024年7月14日、初日を迎える。愛知県体育館(ドルフィンズアリーナ)での開催は最後で、25年、新築のIGアリーナに移転する。

日本相撲協会ウェブサイトによると、江戸時代の力士から照ノ富士までの横綱73人のうち、愛知県出身者は明治・大正期の大錦(弥富市)と玉の海(蒲郡市、1944~71年)だけ。中でも、玉の海は北の富士と「北玉時代」を切り開いた矢先の1971年10月11日、現役横綱のまま27歳で亡くなった。「悲運の力士」として多くのファンの記憶にとどめている。

その夭折の力士が幕内全勝優勝を果たしたのが県体育館。肺動脈血栓症で急逝したのは優勝パレードから3カ月後のことだ。

50年余を経て同級生らが「第51代横綱玉の海を愛する会」として功績を受け継ぐ活動を始めている。幕内での15勝のほか、序二段でも県体育館への移転前、金山体育館で全勝している。名古屋場所での全勝への道のりを会員の思い出からたどる。

※連載「玉の海と名古屋場所」は、第51代横綱玉の海を愛する会、相撲史研究家・杉浦弘さんへの取材をもとに、日本相撲協会のウェブサイト、中日新聞・中日スポーツ記事などを参考にしました。写真は、第51代横綱玉の海を愛する会、杉浦さんに提供していただきました。