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- 2025.1.28グッズ価格誤りに関するお詫びとお知らせ
- 2025.1.18パウル・クレー展が開幕しました
- 2025.1.15イベントが公開されました
- 2024.12.25図録・グッズ・音声ガイドが公開されました
- 2024.10.29公式サイトがアップされました
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🎊本日開幕しました🎊#パウル・クレー展 が
— 【公式】パウル・クレー展 創造をめぐる星座 (@klee_exhn) January 18, 2025
#愛知県美術館 にて開幕しました✨️
"孤高の画家"として語られる
スイス生まれのクレー、
その知られざる交流を解き明かします🔍️
みなさまのご来館をお待ちしています🙏
本展の公式サイトはこちらから⏬️https://t.co/q2ql3ZWwyU pic.twitter.com/sXwpjGQ7zX
この世では、私を理解することなど決してできない。なぜなら私は、死者たちだけでなく、
未だ生まれざる者たちとも一緒に住んでいるのだから
パウル・クレーのこの言葉は、1920年にクレーの作品を売り出した画廊の販売戦略に用いられて、孤独に瞑想する芸術家としての彼のイメージを広めました。たしかにクレーの作品は謎めいているかもしれません。
しかし、同じ時代を生きたほかの多くの前衛芸術家たちと同様に、クレーもまた、仲間たちと刺激を与え合ったり、夢を共有したりしながら、困難な時代を生き抜いたひとりの人間でした。
クレーは、人生の根源的な悲劇性と向き合いながら、線と色彩によって光を呼び起こし、抽象のなかに生命のエネルギーを描き出しました。その作品は、歴史的な文脈のなかに置かれることで、また新たな姿を見せることでしょう。本展では、スイスのパウル・クレー・センターとの学術協力のもと、クレーと交流のあった芸術家の作品との比較や、当時の貴重な資料の参照を通じて、多くの人や情報が構成する星座=コンステレーションのなかでクレーを捉え直し、その生涯にわたる創造の軌跡をたどります。
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パウル・クレー
(1879-1940)
音楽一家の子としてスイス・ベルン近郊の町に生まれる。画家になるべくミュンヘンに移り、1912年にカンディンスキーら青騎士の展覧会に参加。1914年にマッケ、モワイエとともにチュニジアを旅行し、日記に「色彩が私を捉えたのだ」と記す。第一次世界大戦における友人の死と従軍を経て、1921年からバウハウスので授業を行う。1933年末、ナチ政権の迫害を受けてベルンに移住。以後、アメリカでの評価を確立するも1940年に没する。
パウル・クレー
(1922年、ヒューゴ・エアフルトによる撮影、パウル・クレー・センター)[参考]
パリの色彩と
チュニジアの光
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《チュニスの赤い家と黄色い家》1914年
パウル・クレー・センター
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《ハマメットのモティーフについて》1914年
バーゼル美術館
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ロベール・ドローネー《街の窓》1912年
石橋財団アーティゾン美術館
1914年の春、線描を主な表現⼿段としてきたクレーは、友⼈の画家ルイ・モワイエとアウグスト・マッケとともに訪れたチュニジアにおいて、《チュニスの⾚い家と⻩⾊い家》などの⾊彩豊かな作品を描き始めます。クレーが滞在中の⽇記に書き残した「⾊彩が私を捉えたのだ」という⾔葉は、この旅⾏が彼にとって重要な転回点となったことを⽰しています。とはいえ、チュニジアの光だけが画家クレーを⽣み出したわけではありません。その少し前から、彼はフランスの同時代の美術への関⼼を強め、特にドローネーの《街の窓》の「バッハのフーガ」を思わせる⾳楽のような抽象性を賞賛していました。チュニジアから戻った直後にクレーが描いた《ハマメットのモティーフについて》は、まさにこのドローネーの作品を想起させます。
戦争の破壊と希望
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《紫と黄色の運命の響きと二つの球》
1916年 宮城県美術館
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アフロディテの解剖学 1915年
宮城県美術館
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フランツ・マルク《冬のバイソン(赤いバイソン)》1913年
バーゼル美術館
クレーがチュニジアの旅⾏から戻って間もなく、ヨーロッパは第⼀次世界⼤戦へと突⼊していきます。クレーも参加したミュンヘンの国際的な前衛芸術家のグループ「⻘騎⼠」のメンバーの⼀部は、⺟国への帰国を余儀なくされ、ドイツ国籍のマッケとフランツ・マルクは⾃ら従軍して命を落としました。マルクの戦死の知らせを受けた1916年3⽉、クレーも徴兵を受けて従軍します。戦争の先に希望を⾒た友⼈たちの死、前線から伝えられる戦争による破壊、そして⾃らの従軍を経て、クレーは戦争に対する態度を複雑に変化させ、それは作品の制作に反映されていきました。戦時中に⾏われた⾃作の切断と再構成、暴⼒と恐怖の抽象的な表現、そして《アフロディテの解剖学》や《紫と⻩⾊の運命の響きと⼆つの球》に認められる神話的な世界への接近は、戦争との関連なくして語ることができません。
シュルレアリスムの
先駆者クレー
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《小道具の静物》1924年
パウル・クレー・センター
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《周辺に》1930年 バーゼル美術館
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《闘っているポップとロック》1930年
パウル・クレー・センター
アンドレ・ブルトンが1924年の『シュルレアリスム宣⾔』において、クレーをシュルレアリスムの先駆者のひとりとして位置づけたように、第⼀次世界⼤戦後のフランスにおいて、シュルレアリスムの詩⼈や芸術家たちは、彼の作品に着⽬していきました。クレーがシュルレアリストを⾃称し、その活動に積極的に加わることはありませんでしたが、《⼩道具の静物》に描かれた、⼈知れず⽣命を帯び始める舞台倉庫の道具の姿や、《周辺に》に⽰される植物の細部が⾒せる驚異的な姿への関⼼は、シュルレアリストたちとクレーとの接近を物語っています。また《闘っているポップとロック》は、シュルレアリスムの雑誌『ミノトール』を通じた、クレーによる彼らの作品の受容を⽰唆しています。
バウハウスという
共同体
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《蛾の踊り》1923年 愛知県美術館
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ヴァシリー・カンディンスキー
《緑に向かって》
1928年
パウル・クレー・センター
(リヴィア・クレー寄贈品)
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《赤、黄、青、白、黒の長方形によるハーモニー》1923年
パウル・クレー・センター
1919 年にヴァイマルに設⽴されたバウハウスの初代校⻑ヴァルター・グロピウスは、総合芸術としての建築を⽬指すこの学校に、前衛芸術家たちの参加が不可⽋であると考えました。グロピウスからの招聘を受けて、1921 年にクレーは同校の教育を担う中⼼的な存在である「マイスター」に就任します。翌年には、かつて⻘騎⼠の中⼼的存在であったヴァシリー・カンディンスキーも同僚となり、ここで2 ⼈は再会を果たしました。同僚たちとの意⾒の相違や度重なる学校の⽅針転換は、バウハウスを議論の絶えない場としました。
しかし、単なる学校という存在と越えた共同体としてのバウハウスにおいて、《蛾の踊り》や《赤、黄、青、白、黒の長方形によるハーモニー》に⽰されるように、クレーの作品は⾊彩をその駆動⼒としながら、様々な展開を⾒せていきます。
会場・アクセス
愛知県美術館[愛知芸術文化センター10階]
〒461-8525 名古屋市東区東桜1-13-2
愛知県美術館
地下鉄東山線または名城線「栄」駅
/
名鉄瀬戸線「栄町」駅下車、オアシス21連絡通路利用徒歩3分
愛知県美術館 052-971-5511(代)