夢の結晶 SC軽井沢クラブ 俺たちが獲る!!カーリング悲願メダル

平昌五輪で日本カーリング界初のメダルを目指すSC軽井沢のメンバー。右から両角友、清水、山口、両角公、平田、長岡コーチ=軽井沢アイスパークで(大上謙吾撮影)

 平昌冬季五輪の特集「夢の結晶」の第2回は、カーリングの男子で20年ぶりの五輪出場を果たしたSC軽井沢クラブを取り上げる。20年前に自国で開催された長野五輪。軽井沢で開催されたカーリングの熱狂を見て、両角(もろずみ)友佑(32)、公佑(29)兄弟は競技を始めた。「カーリングの街」となった同地で、運命に導かれるように誕生した日本男子最強チーム。日本カーリング界初のメダルを狙うSC軽井沢の軌跡を追う。 (大上謙吾)

熱狂の大一番を観戦

両角兄弟 長野五輪で運命の出会い

米国に敗れ涙ぐむ工藤(右から2人目)ら日本男子チーム=1998年2月14日、軽井沢町風越公園アリーナで

 あの熱狂がすべての始まりだった。1998年2月14日、軽井沢の風越公園アリーナで行われた長野五輪男子カーリングのタイブレーク米国戦。スーパーショットの応酬で、興奮の渦に包まれる会場に両角兄弟はいた。

 当時、兄友佑は中学1年、弟公佑は小学3年。カーリングは始めていなかった。一投ごとにウエーブが巻き起こり、スタンドが揺れる。友佑は「何がいいショットかも分からなかった。ただ、周りに合わせて盛り上がっていた」と振り返る。

 わずか3センチ差に泣き、準決勝を逃した日本。スキップ敦賀の涙は大会のハイライトにも挙げられるシーンだ。カーリングという競技が初めて日本の多くの人に知られた日。「こういう舞台で戦ったら、楽しそうだな」(友佑)。少年の心に植え付けられた熱は、20年後の夢舞台につながっていく。

 そしてもう一人。同じ場所に、現在のSC軽井沢に欠かせない人物がいた。長岡はと美コーチ(64)。4人の子を持つ母だった同コーチは、各試合のショット内容をデータとしてパソコンに入力するボランティアとして運営を手伝っていた。

 もともと夫婦でカーリングを楽しんでおり、戦術に興味があった。「あそこでいろんな戦い方を学ばせてもらった。世界の選手をみて、あんな作戦をやりたいなって」。友佑は中学2年でカーリングを始め、長岡コーチと出会う。この2人を中心にSC軽井沢はつくられていった。

長岡コーチの熱血指導で超攻撃に パワーの山口、冷静な清水も加入

長岡コーチの熱血指導で超攻撃に パワーの山口、冷静な清水も加入

 友佑は世界ジュニアなどの舞台を経験し、長岡コーチの指導のもと攻撃的なカーリングに目覚めていく。2005年にSC軽井沢の前身チーム「AXE(アックス)」に、長岡コーチの誘いを受けた山口が加入。06年には公佑、07年に清水が加入し、現在の主力4人がそろった。

両角友の選択に衝撃

 ひきつけたのは、友佑の嗜好する戦略だった。山口は「すごくいいなと思ったのは、長岡コーチの熱さ。それがすごく気持ちよくて。もう1つは両角のスタイル。作戦がちょっと異常っていうか、普通じゃない。考えていることがよくわからなくて」と、笑って振り返る。

 例えば技術がつたない時期でも、友佑は1、2点になる簡単なショットより、決まれば、4、5点になる難しいショットを選択した。「何でわざわざ決まらないショットを選ぶのか。こいつアホなんじゃないか」。山口は率直に思ったという。それでも「これが決まるようになれば、世界で戦えるようになる」。そう思わせてくれた。

 10年から12年まで日本選手権で勝てない時期もあった。10年バンクーバー五輪、14年ソチ五輪もあと一歩のところで逃した。それでも攻め手を緩めなかった。公佑は兄について「この人がスキップじゃなかったら、勝てるとは思えない」と話す。貫いた信念が、日本男子初めての自力での五輪出場へと導いた。

 軽井沢に残った20年前の遺産(レガシー)も、チームを根底から支えた。長野五輪後、軽井沢は「カーリングの街」として歩み始める。04年にSC軽井沢クラブが設立され、10年には町、競技団体、SC軽井沢による「軽井沢カーリング活性化プロジェクト」が発足。13年には国内最大級の通年型カーリング施設「軽井沢アイスパーク」が完成した。

 選手たちの環境面も大きく変化した。一年の3分の1は海外遠征となる競技。清水や両角公はアルバイトをしながら続けてきたが、ソチ五輪後にはチームのスポンサー企業が正社員として採用してくれた。両角公は建築資材販売の営業、清水は鉄工所で働きながら、収入面の不安なく、競技に打ち込めるようになった。

ショットを放つSC軽井沢クの司令塔・両角友。左は両角公、右は山口(潟沼義樹撮影)

ショットを放つSC軽井沢クの司令塔・両角友。左は両角公、右は山口(潟沼義樹撮影)

ジュニア選手育成も

 16年からSC軽井沢は未来の五輪選手の育成を目指し、「カーリングエリートアカデミー」を設立。友佑や山口らがジュニアの選手の育成に取り組んでいる。2人から指導を受ける鈴木みのりさん(16)は「地元から五輪選手が出るのはすごい。自分もいつか世界で戦える強いカーリング選手になりたい」と、憧れのまなざしを送る。友佑は「子供がカーリングをしやすい環境をつくるのも自分たちの仕事」と語る。街に支えられ成長を遂げた選手たちは、軽井沢の代表として、そして未来のカーラーの希望を背負い、夢舞台に立つ。

 日本のカーリングが、最もメダルに近づいた瞬間から20年。熱狂の中心にあった軽井沢で生まれたチームが、悲願のメダル獲得に挑む。公佑は「20年前に兄と一緒に見ているってことを考えると、すごいなって思う」と笑う。あの日のように、カーリングが日本中を熱くする。そんな冬が間もなくやってくる。

「第5の男」平田はデータ分析担当

 17年から正式に加入した“第5の男”平田は、データを駆使し、チームを支える。北見工大大学院では情報システム工学を専攻し、ショットの精度分析や、カーリングの試合用の分析ソフトを開発。SC軽井沢にも提供してきた。

 今春から正式にメンバー入りし、都内のIT企業で働きながら、データ分析、もちろんリザーブとしてチームに貢献している。「SCは日本男子の憧れのチーム。五輪でも貢献したい」と意気込む。

SC軽井沢のメンバー

SC軽井沢クラブ
 2004年にNPO法人の認定を受け、「スポーツコミュニティー(SC)軽井沢クラブ」として設立された。カーリング、フットサルのチーム運営や、各種スポーツ教室を展開する。カーリングチームは両角友と長岡コーチが所属していた「AXE」が前身で、05年からSC軽井沢の運営となる。日本選手権優勝は史上最多の8回。16年には世界選手権で4位、パシフィックアジア選手権では優勝した。

日本は男女とも5位

長野五輪のカーリング競技
 1998年2月9日から15日まで、軽井沢の風越公園アリーナで行われた。カーリングが正式種目入りし、女子は初めて開催された。男子はスイスが決勝でカナダを下し、金メダルを獲得。日本は予選リーグ3勝4敗で準決勝進出を懸けたタイブレークへと回ったが、米国に敗れ、5位に終わった。女子はカナダが決勝でデンマークを破り、初の金メダルを獲得。日本は予選リーグ2勝5敗で5位だった。

男子はカナダが大本命

平昌五輪のカーリング
 日本は男子がSC軽井沢、女子はロコソラーレ(LS)北見が出場する。出場国は男女とも10。男子は五輪4連覇を狙うカナダが頭一つ抜けた存在。スウェーデン、スイス、英国の欧州勢、米国などがメダル候補で、16年世界選手権4位のSC軽井沢も表彰台を狙える力がある。

 今大会から追加種目として、男女混合ダブルスが実施されるが、日本は出場しない。

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