私の証言

伊勢湾台風60年

中日新聞は伊勢湾台風から60年を迎える今年、中部地方の皆さんが被災体験を振り返る「私の証言」を掲載します。あの時何があったのか、どう行動したのか。何が生死を分けたのか-。多くの経験談を集め、その記憶と教訓を次の時代へとつないでいきます。

伊勢湾台風

1959年9月26日午後6時すぎ、和歌山県・潮岬付近に上陸して本州を縦断。中部地方を中心に死者・行方不明者は5098人に上り、明治以降で最大の台風被害となった。名古屋市内の犠牲者は1800人を超えた。

「一人でも助けたかった」

捜索に当たった陸自隊員

大雨への警戒が報道されるたびに、愛知県小牧市の無職谷口進さん(81)は、60年前のあの悲惨な光景を思い出す。1959(昭和34)年9月、中部地方に甚大な被害をもたらした伊勢湾台風の際、陸上自衛隊の隊員として、被災者の救助や行方不明者の捜索に当たった。「一人でも早く助けたかった」。泥水に漬かる被災地を撮影した写真を見ながら、忘れまいと思い起こす。

「34・9・26 伊勢湾台風 災害出動」。古びたアルバムに、モノクロの写真が貼られている。水没した家屋近くを走る自衛隊の車両や、名古屋市の名城公園近くで飛行する陸上自衛隊のヘリが写る。約10枚の写真は、いずれも谷口さんが撮影した。「カメラが趣味で、活動中に内緒で撮りためた」と打ち明ける。谷口さんは福井県出身で、災害当時は入隊して2年目。59年6月に金沢市から愛知県守山市(現名古屋市守山区)の守山駐屯地に赴任したばかりだった。

台風が最接近した9月26日。大きな台風だと予報されていたため、谷口さんらは外出禁止を命じられ、出動を覚悟した。翌日から愛知県蟹江町や弥富町(現弥富市)で活動を始めたが被害情報が全くなく、「倒れた電柱の後片付けをしに行くつもりだった」。

現場に着くと、眼前に広がるのは水没した家の屋根の上に避難する黒山の人だかり。「まさか、これほどとは」。傷病者や子どもを避難させるため、自衛隊の小舟から「けがをしている人はいませんかー」と大声で叫んだ。舟には麦をまぜたおにぎりを積み、屋根にいる人々に配って回った。

つらかったのは、行方不明者の捜索だった。当時、自衛隊員が遺体を見つけると、笛を吹いて仲間に知らせるのが決まりだった。谷口さんは名古屋市南区の内田橋付近の捜索に当たったが、「あちこちからピーピーという音が鳴り響いた」。

さらに堤防から被災者が「娘のランドセルがここから出てきた。娘を捜して」とすがるように頼んできたという。貯木場から流れ出た材木が幾重にも重なり捜索は難航。遺体を見つけることはできなかったが、「一人でも早く見つけたい」と休憩する間も惜しんで捜し続けた。

伊勢湾台風では、暴風と高潮により死者・行方不明者合わせて5000人を超えた。60年を迎える今も、台風や豪雨災害の犠牲者はなくならない。谷口さんは「あれだけ大きな被害を出した伊勢湾台風の記憶や教訓を、今の時代にも伝えていけたら」と話す。

被災した場所

青色は浸水地域で、中部日本新聞縮刷版などを参照しました(網羅していません)。赤色は標高がゼロメートル以下の地域で、国土地理院の基盤地図情報(数値標高モデル)を使用しました。黒線は気象庁RSMC Best Track Dataによる伊勢湾台風の進路。

私の証言

母のスカート握り続けた

名古屋市熱田区

服部早苗さん

当時、南区天白町の二軒長屋に母と2人で住んでいました。千鳥小学校の6年生で父は早くに病死していました。住まいは天白川の近くで、近所では流木に押しつぶされた家屋も多かったです。でも、台風上陸の当日に修理を終えた家の前の塀が、私たちを助けてくれたのかもしれません。

塀の修理をしてくれた大工さんは「台風が来ているから」と言い、雨戸を外から打ち付け、外れないようにしてくれました。夜に風雨が強まり、しばらくして停電しました。暴風で何かが飛んできて、玄関のガラス戸が割れました。私はトイレの引き戸を外し、玄関の内側から必死で打ち付けていました。当時は貧乏だったので、買いだめていたお米や梅干しを押し入れの中にしまって守ろうとしましたが、水かさはどんどん増すばかりでした。

隣家のおじさんが部屋を隔てる壁を破り、「一緒におろう」と励ましてくれました。雨戸を外から打ち付けていたので、家から逃げられず、みんなで天井裏に登りました。はりに座っていると、足の裏に水が当たりました。家全体がふわふわと浮き上がるように感じていました。母のスカートの裾を握っていると、母が言いました。「天井まで水が来たら終わり。どんなことがあっても、手を放すんじゃないよ」と。私は「間違いなく死ぬんだ」と思いましたが、幸いにも水は引いていきました。

翌朝、屋根の上で近所の人が声を掛け合い、互いの安否を確かめました。自衛隊員がやって来て、私の家の雨戸をいかだ代わりに、方々で救助活動に奔走していました。今でも、災害が起きるたびに、死と隣り合わせだったあの夜のことを思い出します。

ランドセル背負い我慢

愛知県幸田町

林幸博さん

当時は小学4年生で、今の住所の近くに祖父母、両親、妹と住んでいました。台風の日、父は仕事で、祖父と雨戸を板で補強しました。停電した中、5人で不安な夜を迎えました。

やがて猛烈な風が吹き、大切な教科書を入れたランドセルを背負い、縁側で必死に雨戸を押さえました。わらぶき屋根が一部飛んでいき、翌日未明にその隙間から月明かりの空が見え、台風が去ってほっとしたのを覚えています。

早朝、親戚の中学生の男の子が家の下敷きで亡くなったと聞き、訪ねに行きました。合掌しながら命のはかなさに涙しました。

この体験を子や孫に語り継ぐことが、私なりの災害に対する心構えです。「災害は忘れたころにやって来る」の言葉をいま一度かみしめたいです。

「駄目だ」晴れ着で覚悟

三重県四日市市

水谷武彦さん

当時は四日市市富田一色町の高校2年生で、家は酒やしょうゆの小売店を営んでいました。

午後6時ごろ、雨風が強くなってくると、近くの平屋に住む一家が助けを求めに来ました。玄関の戸を開けると、どっと床下に水が入ってきたので、当時珍しかったテレビを慌てて2階へ上げました。

2階に避難してからも水位は上がり続け、次第に2階への階段全10段の7段までが水没しました。母親が「もう駄目だ」と叫び、生き別れになるかもしれないと、お盆と正月にしか着替えない特別な服を妹たちに着せ始めました。私も天井から脱出する覚悟を決めたとき「水が引いたぞ」と言う声が。「助かった」と安堵(あんど)しました。

私の地域は翌日から、多くの遺体を目にしました。何度も手を合わせたのを覚えています。

幼いおいは逃げきれず

名古屋市港区

溝口佳子さん

27歳の主婦だった私は、地元にある夫の実家で台風を迎えました。外から「ゴオッ」「ガシャン」というすさまじい音に交じり、「助けてーっ」という誰かの声が聞こえました。

やがて家の中に、水がヒタヒタとやって来ました。中2階にあった明かり取り用の小さな窓から外を見ると、材木や畳、自転車が押し流され、人の姿も見えました。仕事の都合で中区の勤務先にいた夫とは、もう会えないだろう。今生の別れを覚悟したことを覚えています。

幸い、水は2階にまでは来ませんでした。翌朝に水が引き、1階にあった泥まみれの仏壇に思わず手を合わせました。夫は勤務先から徒歩で無事に戻りました。しかし、少し離れた場所に住んでいた70歳の叔父と3歳に満たないおいが、避難の途中で亡くなりました。

寝ていた布団が浮かぶ

愛知県春日井市

酒井一郎さん

経験のない激しい雨と、家を吹き飛ばすのではないかと思うほどの風が吹き荒れていました。

午後9時ごろだったか、小学3年生だった私は寝ていた布団が水で浮かび出したことに驚き目を覚ましました。姉や妹と3人で高さ70~80センチほどの机の上に乗り、水が引くのを待ちましたが、水かさはあっという間に増え、今度は押し入れに逃げ込みました。

ちょうどその時、消防団がやって来て「川の堤防が切れた。早く逃げろ」と言われました。両親は慌てて戸を破り、近くで最も高かった鉄筋4階建てアパートに急ぎ避難しました。首下まで水に浸かり、命からがら逃げてきた私たちを住民は快く部屋に上げてくれました。慌てていたのか、びしょぬれになったパジャマのポケットには、なぜか靴墨が1個入っていました。

重油と海水、畳反り返る

愛知県安城市

川辺栄子さん

当時、名古屋市港区の三菱重工大江工場の社宅に住んでおり、中学2年生でした。あの日は昼前から真っ黒な雲が覆った不気味な空でした。木造平屋の家が風でガタガタと揺れ始めたので午後7時ごろ、約2キロ先の大同製鋼築地工場の事務所に家族6人で避難しました。目も開けられず息もできないほどの強風で、必死でした。

約100人が避難した事務所の大きな建物が、ガガガガガーと揺れていました。そのうち大量の雨水が流れ込んできて、事務机などがひっくり返りました。誰かが傘の先で天井を突き破り、屋根裏によじ登りました。朝まではりにしがみつきながら、「このまま死ぬのか」と恐ろしかった。

水が引いてやっと戻ったわが家は、屋根も玄関扉も飛ばされ、名古屋港から流れてきた重油と海水で畳が反り返っていました。

水片付け、風化させない

岐阜県養老町

松永弘之さん

60年前、私たちの地域は2度の水害に見舞われました。8月に集中豪雨で自宅から1キロほどの堤防が決壊。伊勢湾台風では仮堤防が切れて、再び一帯は泥の海と化しました。

当時は高校2年生。台風の夜に聞いた「ぴちゃ、ぴちゃ」という音が耳に残っています。家族7人で自宅にいました。土壁を崩すような風雨が収まり、暗闇の中でした。床下へと水が流れ込んできた音で恐ろしさを感じました。

地域には「水片付け」という言葉があります。水害の危険が高まると、家財道具を避難させるという意味。自宅でも最初の水害の前に2階に上げました。「田舟」と呼ぶ小型の舟も準備されていて、泥海の中を田舟で食品を買いにも行きました。

水片付けを含めて災害の経験や備えは、風化させることなく伝えていきたい。

鉄筋住宅で難を逃れる

愛知県東海市

小島豪和さん

現在の東海市、旧上野町荒尾の木造平屋の町営住宅に住んでいました。当時は中学1年の13歳。午後は天気も良く、台風が来るとは思いませんでした。

夕方、風雨が強くなり、夜には停電。「ミシミシ」と家がきしむ音が大きくなり、恐ろしくなって向かいにあった知人の鉄筋コンクリートの県営住宅に母と弟、妹と4人で避難しました。名古屋市港区の会社に勤めていた父とは連絡が取れず、心配で朝まで起きていました。

朝、父が自宅に1人でいたところを見つけ、互いに泣いて喜びました。父は夜に歩いて帰り、家に誰もおらず心配したそうです。1時間も帰るのが遅ければ、天白川が渡れずに命もなくなっていたかもしれなかったそうです。父はその後、住宅は鉄筋コンクリートでないとダメだと言い、2階建ての家を造りました。

「水来た」姉叫び2階へ

名古屋市南区鳴浜町

冨田博行さん

暗闇から聞こえた「助けて」という声を、今でも覚えています。

当時、名古屋市南区の白水小5年生。9月26日は夕方から雨が降りだしました。兄とテレビを見るため、木造2階の自宅に隣接する平屋にいましたが、雨風は強くなるばかり。午後8時半ごろ、自宅にいた姉が「水が来た、逃げなあかん!」と私たちに叫びました。既に辺りは浸水し、水圧で木戸が開きません。やっとのことで戸を開け、目の前にあった階段に飛び移り、兄と2階に駆け上がりました。

2階も浸水しましたが、大人の膝ほどの高さで止まり、私は布団置き場で寝ました。翌朝、水が多少引いた道路に白い物が浮かんでいて、よく見ると女性の遺体でした。私も2階に上がれなければ流されていたでしょう。日本は災害大国。自分だけは大丈夫、ということはあり得ません。

背中に女児 数十メートル流され

愛知県東海市名和町

浅井昇さん

名古屋市南区本星崎町の平屋の市営住宅に、家族7人で住んでいました。午後9時ごろ、近所の人に「貯木場が切れたので避難して」と言われ、外に出ると水が膝上まできていました。大事にしていた切手帳と学生服を持って逃げましたが、一気に水が押し寄せ家族全員が流されました。後に犠牲者の靴が積み上げられ「くつ塚」と呼ばれるようになった辺りでした。

背中に3歳くらいの知らない女の子がしがみつき、2人で数十メートル先の倉庫まで流されました。近くの電柱にも数人いましたが、一人ずつ水の中に落ちて、流されていきました。私は女の子と倉庫のひさしへ上り、一夜を明かしました。

翌日、家族とは避難先で合流できました。後に聞いた話では、住んでいた市営住宅で家族全員が助かったのは、私たちと、もう1世帯だけだったそうです。

突然濁流、首まで漬かる

岐阜県多治見市

中山京子さん

当時、三重県桑名市の土木会社に勤めていました。夕方から強い雨が降りだし、帰宅するのもやっとのことでしたが、午後7時ごろ、突然濁流が同市矢田の平屋の借家を襲いました。玄関の引き戸を突き破り、畳を突き上げ、辺り一面水浸しに。あっという間に首のところまで漬かりました。必死に水の中を進んで、隣の2階建ての大家さん宅に避難しました。

その間もどんどん水かさが増しました。「もうだめだ」と思った瞬間に引き潮になり、助かったとほっとしました。翌日はウソのような晴天になり、街の様子がよく分かりました。電柱に幼稚園児くらいの男の子がつかまりながら亡くなっていましたが、両足がもぎ取られていました。まさに地獄のような風景でした。私もあの夜、命を落としていたら、夫や娘、孫にも会えなかったでしょう。

家中浸水、屋根裏で一夜

愛知県弥富市神戸

児玉勝義さん

台風の日、午後8時すぎだったでしょうか。消防団員が家の外で「おーい、水が来るぞ」と呼び掛けて回っている声を聞きました。自宅の裏は、すぐ川です。早めに寝るつもりでしたが、念のため米などを屋根裏に運ぶことにしました。

しばらくして、家の中が浸水しました。床から1.5メートルほどの高さまで来たでしょうか。室内のはしごを登って難を逃れ、屋根裏で一夜を過ごしました。

快晴だった翌日。辺り一面に漬かった水が、干潮で少し引いたときのことです。庭のツツジに、小学生くらいの女の子が引っかかっているのを見つけました。水を大量に飲み、おなかが膨れ上がった遺体でした。

消防団員の呼び掛けがなければ、私も死んでいたかもしれません。早めに情報に接し、対策を取ることが大切なのだと思います。

空腹に染みた、釜のお焦げ

名古屋市南区道徳

杉浦秀昭さん

当時9歳で、名古屋市南区の道徳地区に住んでいました。9月26日は夕方から豪雨。停電し、2階の一室に家族や下宿人で集まりました。避難途中の見知らぬ人々や同級生らもやってきて、気付けば十数人に。中には、生後まもない赤ちゃんを抱いた母親もいました。

そうこうしているうちに、周囲はみるみる増水。「このままだと屋根に上るしかない」と思いましたが、水は階段1段分を残して止まり、命拾いしました。

翌日、辺りは「海」になりました。家のガラスは割れ、天井板はめくれあがり、無残な姿に。さらに食料がなく、空腹でした。避難してきた幼なじみの父親が泳いで自宅に戻り、台所付近に浮かんでいたお釜を持ってきてくれました。その縁に張り付いていたご飯のお焦げが、なんとうまかったことか。今でも忘れられない味です。

荒天の中、作業員に出前

愛知県豊川市御津町赤根

河村秀夫さん

当時は中学を出て蒲郡駅前のすし店に住み込みで働き始めたころ。昼前から風が強く、暗雲が垂れ込めていました。夕方ますます雨風が強まり、店主が「これではお客も来ない、カンバンだ」と言ったところに出前の注文が入りました。

近くの港の荷揚げ場に積まれた石炭や木材を守るため、招集された作業員の夜食。50人前ほどを詰めた岡持ちを200メートル先の事務所へ届けるのに、自転車のハンドルと荷台を3人がかりで押さえて行きました。

その後、店内はテーブルを立てて押さえていたガラス戸が割れてぐちゃぐちゃに。翌日港を見に行くと、作業員の努力もむなしく石炭も木材も全部流されていました。観光名所の竹島では橋の一部が崩落しました。今でも災害が怖く、台風情報には気を付けています。

長女背負い避難、はだしに

愛知県碧南市川口町

河江良子さん

当時32歳。夕方ごろから家族五人で、自宅に近い同じ岐阜出身の入植者の家に避難していました。風が強くなってガラス窓が割れないよう、皆で座布団で押さえたんです。そのうち勝手口の排水口から「ボコボコボコ」って水が湧き出してきた。「ほら、水が入ってきた」と叫んだ覚えがありますよ。

6歳だった長女を急いでひもで縛って背負い、堤防に避難したんですが、この時、草履が脱げ落ちて。そこからは、はだしのまま矢作川の堤防を2キロほど上流に向かって、歩いて避難しました。

足の裏が痛いとか、そんな記憶はないねえ。必死だったんだろうね。途中、飛んできたトタンに当たって血を流しているおばさんもいたけど、この一帯で亡くなった人がいなかったのは、ほんとによかったです。

校庭に棺おけ、異常な光景

愛知県岡崎市樫山町

鈴木勝男さん

高校を卒業し、愛知県職員になって2年目。東海市名和町の上野浄水場建設に携わっていました。

当日は休みで岡崎の自宅にいて、夕方から雨風が強まりました。雨戸がなかった東側の窓から風が吹き込み、かやぶき屋根の東側がめくれ上がってしまい、室内はびしょぬれ。家族5人と風が収まるのを待つのみでした。

翌朝、仕事場(上野浄水場)が心配になり、オートバイで国道1号を走りました。現場にあった木造の詰め所は跡形もない状態。ブルドーザー2台だけが残っていました。

1週間ほどでしょうか、天白川に架かる橋の歩道には水膨れした遺体がたくさんありました。1カ月くらいの間は、通勤電車の窓から学校の校庭に棺おけが並んでいるのが見えました。異常な光景に顔を背けることしかできませんでした。

幼子3人抱え眠れぬ一夜

愛知県津島市西愛宕町

水谷シウさん

あの日は主人の31歳の誕生日でした。お祝いの夕食の後、3人の子どもを寝かしつけたころ、風と雨の音がすごく強くなってきました。午後9時ごろでしたでしょうか。すごい音を立てて屋根瓦が吹き飛び、雨が家の中に入ってきたのを覚えています。

子どもは6歳、3歳、0歳と小さく、逃げるのは難しい。その日は祈るような気持ちで、そのまま自宅で一晩を過ごし、ほとんど寝られませんでした。

翌日以降、周辺の道路や自宅が水に漬かりました。その後、水位が上がり、最も高いときで1メートルほど。親戚の家へ避難し、自宅に戻ったのは2カ月ほど後。その後は自宅の掃除に明け暮れ、疲れがたまってしまい、病院へ通いました。

もしもの時にどこに逃げるのか、あらかじめ決めておくことが大切です。

天井の土壁落ち逃げた

愛知県田原市片浜町

小林一弘さん

当時は中学1年で、今の住所にあった自宅の母屋に父母、弟といました。天井の土壁が落ちてきたので、母屋がつぶれてしまうのではと危機感を抱き、外へ出ました。

小枝が宙に舞うほど強い風。夜なのに稲光で不気味なほど明るかった。10メートルほど離れた納屋へ逃げ、積んであった稲わらの間に入って身を守りました。気圧の低さからか、耳がキーンと痛くなりました。竜巻に吸い込まれていくような感じで体が浮く錯覚があり、眠ってしまいました。

「東のもんは、生きておるかん!」。西隣に住む女性の声が聞こえ、外に出ると、朝日がまぶしかった。「助かった」と思いました。

2階建ての母屋の1階部分が風でつぶれ、平屋のように。災害時には適切に判断できるよう、自分の意思や直感を大切にしています。

ドラム缶が飛ぶような音

愛知県知多市日長台

南部恵美子さん

当時は19歳。名古屋市中川区柳島町に住んでいました。同市中区の本の卸売会社に勤めており、その日は夕方前に「早く帰れ」と言われ、市電で帰りました。でも尾頭橋駅からは市電がなく、刺さるような雨の中、1時間ほどかけて自宅まで歩きました。

平屋の自宅には母と妹弟がいました。屋根の上を大きなドラム缶が飛んでいくような大きな音がして、柱もぎしぎしと揺れていました。雨水が畳を押し上げ、床上まで来ました。

私は「うちだけじゃない。頑張れ」と叫ぶ母と一緒に、妹と弟を押し入れの長持ちの上に休ませ、屋根裏へと生活用品を運びました。

翌朝、屋根から辺りを見渡すと一面は水。ニワトリやげたが浮き、あちこちに畳を焼く煙が漂っていました。災害時は行政に頼るのでなく、自分の身は自分で守るべきだと学びました。

濁流と一緒に人が家に

愛知県春日井市瑞穂通

長縄加津子さん

当時は結婚前で、三重県桑名市伝馬町の木造2階建てに兄夫婦と住み、台風の日は、雨戸を閉めて家の中でじっとしていました。

すると、玄関からドンドンと扉を強くたたく音が聞こえ、近づくと「助けてくれ」との声もしました。

「そんなにたたくとガラス戸が壊れるから」と引き戸を開けた途端、隣のうどん店の女性店員と見知らぬ人が、濁流と一緒に家の中へと流れ込んできました。

必死になって2階まで階段を上ると、2階の床ぎりぎりまで水が来て、生きた心地がしませんでした。

水が引き、1階にあった婚礼前の衣装や思い出の品は全て駄目になりましたが、命があって本当によかった。当時は防災の意識はなく、なすすべもありませんでしたが、今は「備えあれば憂いなし」と心から思います。

泥だらけの遺体、目背けた

愛知県東浦町緒川

野村みち子さん

愛知県半田市の銀座本町に住んでいました。小学校が途中下校になったので姉や妹、弟と2階や土蔵で過ごし、親に呼ばれて下へおりると、泥水が腰より上まできていました。父に背負われ、家族で逃げました。

火事が起き、夜なのに異常に明るい。雨は痛いほど強く、火の粉も降ってきました。鉄筋コンクリートの建物に逃げ込みましたが、誰かが「こんな所じゃ蒸し焼きになる」と。何とか逃げ着いた国鉄半田駅の貨車の中で、台風が過ぎるのを待ちました。

翌日、近くの橋のたもとにテントが張られ、泥だらけの遺体が並んでいました。あまりの光景にすぐ帰りました。途中下校を「遊べるね」と喜び合った同学年の子も亡くなったと聞きました。小学校で児童全員が無事だった学級は、私の組ともう一組だけ。今でも忘れられない日です。

船のように家が揺れた

愛知県刈谷市井ケ谷町

近藤昌昭さん

祖父や父の背中を追って指物師さしものしをしており、台風当日も刈谷市内の自宅から1.5キロほど離れた仕事場にいました。夜7時ごろには、バラックの工場の土台が風で持ち上がるような揺れ方を始めました。

「これは危ない」と帰り始め、木々が揺れて横なぐりの雨が降る中、運転できずバイクを必死に引いて歩きました。

帰宅すると、母と5人の弟妹が家で待っていました。建て替えたばかりの家で比較的丈夫だったので、隣の人も避難してきました。それでも船のように家が揺れて、とても怖かった。2階の戸が1枚飛び、吹き込んだ風が勢いで屋根の瓦をバラバラと落としたのか、翌日には、瓦が高さ1メートル以上に積み上がっていました。

皆無事でしたが、テレビもラジオも受信できず、情報が入らない不安と恐怖は忘れません。

火葬待つ無数の棺 衝撃

名古屋市天白区八事山

水谷勝彦さん

当時、名古屋市中区新栄で暮らしていました。勤めていた八事の自動車学校から退社するように言われ、帰宅したのが午後2時ごろ。風雨が強くなってきた頃でした。

すぐに2階南側にある4、5枚の雨戸を閉めましたが、しばらくして「ゴォー」という音とともに強風が吹き、押し破られそうになりました。兄と物干しざおで押さえましたが、1枚の雨戸が外れ猛烈な風雨が屋内に入ってきたのです。

1時間ほど、ずぶぬれになりながら、他の雨戸を守ろうと必死でした。部屋は10センチくらい浸水し、壁土も崩れ、後始末に1カ月くらいかかりましたね。

2、3日後、八事斎場の近くへ行くと、ひつぎが斎場の入り口から数百メートルにわたって、道路の両側に5段くらい積まれていました。私は命が救われただけ、幸せだと感じました。

避難が5分遅れてたら…

名古屋市南区三吉町

山下かをるさん

天白川近くの南区元柴田東町の借家に住んでいました。勤め先から帰宅した午後4時ごろ、ガラスがガタガタ揺れるようになり、歩いて10分ほどの柴田小学校に避難しました。

学校1階の土間でしばらく待機していると、男性の「堤防が切れた」との大声が聞こえました。慌てて2階に上がり外を見ると、濁流とともに次々と家が流されていくところでした。屋根の上で懐中電灯を振り上げながら、「助けて」と叫んでいる人も一人ではありません。

翌朝、流木とともに、おびただしい遺体が浮かんでいました。自宅はめちゃくちゃで、近所の人もたくさん亡くなりました。避難が5分遅れていたら、私も巻き込まれていました。仕事に出ていた夫も3日後くらいに無事再会できました。運が良かったと思います。

号外に絶望 一転無事知る

愛知県半田市相賀町

小栗和夫さん

実家はJR半田駅の近くですが、当時は京都の大学の近くで下宿していました。テレビが無いので台風が来ていることも知らず、翌朝下宿先の方から京都新聞の号外を見せられて被害を知りました。

「死者不明一千越す 桑名、半田両市で」の見出し。「半田市では住民数百人が半田港内に押し流された」とあり、もう半田はダメだ、実家も壊れてしまったのだろうと思いました。

急いで京都駅から列車に乗り、13時間かけて名古屋駅に着きました。線路が水に漬かった状態の武豊線に乗り換えて、乙川駅で降りたら駅前は泥だらけで電柱も倒れ、ひどい状態でした。

1日かけてようやくたどり着いた実家は、浸水してはいるものの形は残っていて、家族も無事。それでも目と鼻の先の家は流されていたので紙一重でした。

「風が呼吸」恐怖の初体験

岐阜県美濃加茂市

水谷敬さん

当時私は小学5年生で、木曽川に近い美濃加茂市太田町に住んでいました。夜半に急に風が強くなり、家の土壁をドーン、ドーンと打ち始めました。ぐーっと吹き付けたり、すっと弱まったり。父親と一緒に両手で壁を支えながら、風が呼吸するのを初めて体験しました。

雨で壁の染みもどんどん広がり、風息かざいきが最大になったと思いきや、壁が崩れ落ちてきました。父親が急いで畳と床板を外して、壁にくぎで打ち付けました。間もなく雨風が静かになり、「助かった」と倒れ込むように寝てしまいました。

今住んでいる下米田地区は、山に挟まれているので風の通り道となり倒壊した家も多かったようです。台風はなくなりません。土地の特徴を知り、それに応じた減災対策を考えていかないといけないと思います。

被災者に店の菓子配った

名古屋市守山区川東山

岸上誠子さん

あの時、私は「ペコちゃん」の不二家に勤めていました。忘れもしない台風明けの9月27日朝。自宅があった守山区から中心部の広小路通に面した店に出勤すると、泥まみれの衣服で店の前を通り過ぎていく人が大勢いました。中にははだしや半裸の人も。台風で被災して、親戚などの家に身を寄せるため名古屋駅方面へ向かっていた人が多かったのでしょう。

店長から「倉庫にある在庫品を皆さまにお渡ししなさい」と言われ、箱に入ったクッキーやキャンディーを配りました。みなさん、お礼を言うものの口数は少なく、うつろな目で放心状態のように見えました。小さなお子さんを連れた親御さんもいて、気の毒で仕方ありませんでした。

災害時は、助け合うことが大事になると思います。明日はわが身。気を引き締めていきます。

天井裏へ逃げ眠れぬ一夜

名古屋市南区寺崎町

毛利碵さん

被災当時、中学2年生で、山崎川近くの南区六条町に暮らしていました。午後8時半ごろに停電し、1時間くらい後に、濁った水が室内に入ってきました。堤防が切れたからでした。

父が勤務先に行っていたため、家にいるのは母と姉、妹2人と私の5人。営んでいた駄菓子屋のガラス戸は強風に備えて杉板で固定し、裏口なども畳で押さえ付けていたので、外に出られません。水かさが増える中、私は押し入れにある天井の板を手で破り、全員で天井裏に上がりました。

天井裏も3センチほど浸水し、外からうめき声や叫び声が聞こえてきました。服はぬれていましたが、寒さを忘れ、恐怖で震えていました。一睡もしていません。翌日午後、父がボートで救出しに来てくれました。あの時の涙ぐんでいた父の表情は忘れられません。

風でバス傾き 車内緊迫

愛知県阿久比町福住

石橋安男さん

住まいは愛知県半田市でしたが、名古屋市港区の工場に勤め、バスケットボール部に所属していました。2年連続の国体出場を目指して練習していましたが、あの日は午後7時ごろ、帰宅するよう言われました。

名鉄神宮前駅まで向かう市バスに乗ると、バスが傾くほどの風。運転手から「皆さん、進行方向に向かって左に寄ってください」という指示までありました。

電車は止まっていて、車内で一晩過ごしました。翌日はまさに台風一過の快晴でしたが、電車はもちろん動きません。仕方なく勤務先へ戻り、そのまま工場の復旧作業に追われました。

帰宅したのは3日後。ヒッチハイクして、トラックに乗せてもらったんです。当時は自宅に電話はなく、家族からは「死んだと思っていた」と迎えられたのを覚えています。

押し寄せる水に流された

愛知県知多市

松下泰子さん

当時は8歳。名古屋市南区の名鉄柴田駅近くに住んでいました。平屋の家で祖母と母、兄と2人の姉と一緒にいました。午後8時すぎだと思いますが、近所の人と外で話していた兄が「逃げろ」と叫びました。戸を開けると水がどばっと押し寄せ、みんな慌てて学習机の上に上がりました。

家が傾き始め、私は母の腰にしがみついていると、水流で窓からすり抜けるように外へと流されました。材木などと一緒に流され、次第に記憶がなくなりました。

母によると、「お兄ちゃん、助けて」と叫んでいたそうです。どなたかの家の前まで流され、屋根の上に引っ張り上げてもらったそうです。祖母は家の下敷きになって亡くなりました。隣町に引っ越して再出発しましたが、台風が来るたび、近くの小学校へ早めに避難するようになりました。

おはぎ 避難所に笑顔の輪

愛知県大府市吉田町

三松千恵子さん

当時、岐阜県大垣市緑園に住んでいました。自宅は鉄筋4階建ての工場の社宅だったので被害はほとんどありませんでしたが、名古屋市南区白水町に住んでいたいとこの家族が、被災して自宅を失いました。

翌週末、いとこの家族へ食料や衣類を届けに、両親と3人で名古屋に向かいました。避難所になっていた体育館で私が抱えてきた風呂敷を広げると、母親手作りのおはぎが箱いっぱいに十数個並んでいました。いとこ2人は声を上げて大喜びです。すると伯母が、近くにいた見ず知らずの子どもたちにも「みんなおいで」と声をかけました。10人ほど集まり、みんな笑顔でおはぎを頬張っていました。

大変な時でも他人を思いやる伯母の温かさが忘れられません。荷物がなくなったせいもありますが、心も軽くなった帰り道でした。

家に水 たんす浮いていた

名古屋市南区

せい 光雄

大きな台風が来ることは分かっていたのに、会社から帰宅した私は浴衣一枚で普段と変わらず自宅2階でテレビを見ていました。

午後9時すぎ、突然画面が消え、電灯も切れました。間もなく表から「助けて」と声が聞こえて外を見ると、街はすでに浸水していました。家にも水が入ってきて水圧で扉も開かず、外に逃げることはもうできませんでした。当時父親が家具製造業を営んでおり、1階に置いていたたんすなどの家具がぷかぷか浮いていたのを覚えています。

家族8人と従業員、私の家に避難してきた近所の人と合わせて計21人で、夜を過ごしました。2階まで水が来たら外へ出るしかないと、私と父親でずっと水位を見守っていましたが、午前零時半ごろにぴたっと止まりました。このときに「なんとか助かった」と、ほっとしました。

生死を分けた裏口のドア

岐阜県海津市南濃町

丹羽博子さん

当時は幼稚園児で、三重県桑名市の平屋に父母と兄、弟の5人で住んでいました。夜、近くの堤防が切れるかもしれないと手荷物をまとめ、玄関を開けた時に水が入ってきました。慌てて父が私をおぶってくれました。

道路には父の腰くらいまで水があり、流されそうになりました。3軒先の2階建ての家までたどりつき、父が玄関をたたいて叫びましたが強風のためか聞こえない。裏口に回って何回かたたくと、ようやく開けてもらえました。家族の生死を分けた瞬間。子どもながらに長い時間に感じました。

2階に上げてもらい、ホッとしてうとうとしたように思います。翌朝、外を見たら泥のような水が流れていたのを覚えています。

今は情報が発達しているので、危険になると感じたらすぐに逃げてほしい。

自宅襲った暴風「鉄の塊」

三重県伊勢市一宇田町

池田実さん

当時は、伊勢湾に近い伊勢市二見町の今一色地区に住んでいました。地区内の母親と幼い女の子が亡くなったことを、よく覚えています。

2人は、猛烈な風で家が倒れそうになり、外に逃げるところだったそうです。避難する寸前に家の下敷きになり、そこに高波が襲ってきました。家族や近所の人が助けようとしたけれど、水位が高くて離れざるをえなかったそうです。結果として、圧死ではなく水死だったと聞いています。

自分は19歳の浪人生でした。自宅の1階が高波で浸水し、両親たちと2階にいました。窓のところに畳を当てて、2~3時間ずっと手で押さえていました。停電していたので真っ暗です。まるで鉄の塊が家を押すような風の力でした。「ギギギギギ」という木造の家がきしんで傾く音を、恐怖とともに覚えています。

上陸前日 真っ赤な朝焼け

岐阜市上土居

小川てるさん

台風が上陸する前日、東の空が真っ赤に朝焼けしていました。夫と工務店を営んでいて、その日は岐阜県内で手掛けたお客さん宅の建前の予定でしたが、天気が気になり延期しました。

翌日の夜になると、家族四人でいた岐阜市則武の自宅は屋根瓦がひゅうひゅうと飛び、それはもう恐ろしかったです。風がまるで息をしているようでした。床下に風が入ると、畳がバタバタと持ち上がって音を立てました。夫は雨戸に筋交いを打ちましたが、風でふわふわとしなりました。

私も6月に生まれたばかりの次女をおんぶしながら、畳を雨戸に押し当て、両手で必死に押さえました。ただ、台風が通り過ぎるのを待つしかありません。翌朝になるとけろっと天気がよく、夢みたいでした。でも、両隣の家は壁が抜け、柱だけになっていました。

水深2メートル 屋根裏へ逃げた

名古屋市北区

立木たちき昭男さん

名古屋の中心部の栄で仕事中に風雨が激しくなり、家族6人で暮らす南区宝生町の自宅へ市バスで引き返しました。強風でバスの窓ガラスが何カ所も割れ、運転手が運行をやめようとしましたが「行けるところまで行って」と必死に頼み、運転を続けてもらいました。

自宅は平屋。ずぶぬれでたどり着くと、母や弟たちが倒壊を免れようと、ドアや壁を懸命に押さえていました。午後6時半ごろ、水かさが増し、まず母や妹ら4人を隣の2階建ての建物へ逃がしました。私は4歳下の弟と荷物をまとめてから逃げるつもりでしたが、いつの間にか水の深さが2メートルほどになって逃げられない。天井を壊して屋根裏へと逃げ込みました。

幸いにも午前零時ごろに水かさが減り、命は助かりました。役に立ったのは懐中電灯とラジオでした。

飛島の家族 助かった奇跡

愛知県大治町砂子

奥山 あきらさん

勤めていた農機具メーカーの寮がある大治町に住んでいました。寮が水に漬かることはありませんでしたが、台風が過ぎ去った後、同県飛島村の実家の様子が気になりました。

会社の車を借りて向かおうとしましたが、大きな松の木が倒れていたり、国道が水没していたりして近づくことができません。船を使って何とか帰れたのは、台風から3日後。家は土壁がはがれ、柱だけが残っている異様な姿でしたが、「おーい」と声をかけると、6人の家族が屋根裏から元気そうに出てきました。人づてに無事は聞いていましたが、その時は本当に安心しました。

村にあった兄嫁の実家は流され、家族2人が亡くなりました。あの日、実家にいた兄嫁は実母から「早く嫁ぎ先に帰れ」と強く促されたおかげで助かったそうです。まさに奇跡でした。

イモを手に持ち避難先へ

愛知県春日井市

渡辺義教さん

名古屋市南区の山崎川近くの平屋に住んでいて、当時私は8歳でした。夜のうちに台風が通過するだろうと、早めの夕飯を済ませて寝ていました。

「堤防が切れたよ」という隣人の言葉で外を見ると、水は大人の膝ほど。目の前にあった大家さんの家へ逃げ込みました。父はふかしたイモを手にしていました。何も持たず逃げても、その先がないという衛生兵としての経験が生きたのでしょう。

東の空に朝日が見えたときは子どもながらに「助かった」と胸をなで下ろしました。近所の人はみんな大家さんの家に避難しており、子どもだけがイモを食べてしのぎました。

役所の人だったのでしょうか、2日目の夜にやっと船が来てコンブのおにぎりを配ってくれました。避難時の食べ物の確保の大切さが身に染みた体験です。

駐在所 屋根飛んで水浸し

愛知県豊川市御津町

金子辰弥さん

当時は愛知県警西尾署(西尾市)の鳥羽駐在所に勤務していました。駐在所は海岸のすぐそばにあったため、激しい風雨で屋根は吹っ飛び、部屋は水浸し。妻と幼い子がいましたが、警察官が逃げるわけにはいきません。狭い部屋に身を寄せ、早く台風が過ぎるのを祈っていました。

夜に外を見ると海岸が明るくなっているのに気づきました。朝になってようやく、それが堤防を乗り越えて座礁した貨物船の明かりだったと分かりました。ベテラン船長も経験したことがない風で、いかりを下ろしていたにもかかわらず押し流されたと聞きました。

駐在所は使えず、近所の人が家の離れを貸してくれたり食料や水を分けてくれたり。地域では浸水した家も多く塀の下敷きになって亡くなった人もいました。36年の警察官人生でも衝撃的な出来事でした。

書店営む実家の本が全滅

三重県伊勢市一之木

池山美智子さん

当時は中学3年生で、海に近い二見町茶屋(現伊勢市)に住んでいました。学校から帰り、夕方にはすごい雨風が吹き始めました。強い雨風と海岸から流れてくる水で玄関の戸が外れ、私は母と一緒に障子が流されないよう押さえました。実家は小さな書店。父が必死に本を守っていましたが全滅でした。母は念仏を必死に唱えていました。

雨が収まった後、消防団の人が、水が深さ1メートルほどもたまった道を、舟をこいで「大丈夫かー」と見回りに来たのを覚えています。

翌々日、学校に行くと、3棟ある校舎の屋根瓦は全て吹き飛び、渡り廊下がぐにゃぐにゃに曲がっていました。先生が生徒に家の被害状況を聞いていました。「全壊です」と答えた生徒が泣き崩れた光景は、今でも忘れません。

家族5人が寄り添い一夜

名古屋市千種区

吉田誠さん

当時中学2年生で、今の岐阜県可児市に住んでいました。就寝前に風が一段と強まり、好奇心から庭に出ると空は昼間のように明るく、屋根は強風で今にも吹き飛ばされそうでした。祖父、母、兄、弟と寄り添って一夜を過ごしました。

翌朝、見慣れた景色が一変。家の裏の氏神さまの森は、大人3人で抱えるような巨木が根こそぎ倒され、拝殿の瓦は飛散し、足の踏み場もない境内を見た時は涙がこぼれました。

父は当時、愛知県警港署の次長でした。管内の被害は甚大で私たちに会えたのは1カ月後のことでした。

3年前、遺品から「伊勢湾台風記録写真」のアルバムが出てきました。昨年この写真展を開くと、感慨にふける方、肉親を思い涙される方など、たくさんの皆さんに真剣なまなざしでご覧いただけました。

夜なのに青い不気味な空

名古屋市守山区

酒井和子さん

私は当時、中学3年生で今と同じ場所に住んでいました。父は夜勤でおらず、祖母、母、姉、弟と私の5人で家にいました。

わらぶき屋根の母屋は午後6時すぎから「ギーコー」と音をたてて揺れだしました。母屋よりは新しい離れの家に逃げ出しましたが、雨風が強くなると台風の呼吸で家の中が膨らんだり縮まったりしました。小学6年の弟が震えているので「おそがいのか」と聞くと、「武者震いだ」と言いました。

突然、風が静かになったので戸を開けて西を見ると、台風の目の中なのか、夜なのに青空が見えました。不気味な空でした。

朝、母屋を見ると、わらぶき屋根がずり落ちていました。その後、何日も過ぎて台風被害の大きさを知りました。自分のところは大したことのない方だと。

家が揺れ体は浮き上がり

岐阜県輪之内町

中島芳子さん

岐阜県養老町の牧田川の近くに住んでいました。1階の畳を2階に上げ、雨戸ごと窓が飛ばされないよう畳を窓に立て掛けて、畳の上から押さえていましたが、強い風雨で家ごと揺れ、体が浮き上がって怖かったです。

早朝、下流の堤防が決壊したという知らせで外へ出ました。親が引くリヤカーを後ろから押していましたが、水かさが増し、子どもの膝くらいの高さになったころには流されないようにつかまるだけで精いっぱい。やっとの思いで近くの堤防まで避難しました。

後日、兄とともに舟で家を見に行きました。家の1階には天井に届きそうなほどの水が。外にはまん丸に体を膨らませた豚や牛の死骸が泥水の中に浮き、ひどい臭いがしました。

まるで映画のような非現実的な光景を、今でも雨が降ると思い出します。

50メートルの鉄塔や電柱倒れる

愛知県江南市

脇田博文さん

当時29歳だった私は、愛知県一宮市瀬部にある中部電力の古知野変電所に勤め、敷地内の社宅に妻と娘と住んでいました。台風が過ぎて外に出ると、変電所の隣の木造トイレの中に、近所の人が避難していました。

電話がつながらず、被害状況を一宮営業所に報告するため、がれきの中をミニバイクで向かいました。うそみたいに良い天気で、月が輝いていたことを覚えています。

途中、空き巣と間違えられ、交番の警察官に止められました。違うと分かると、彼から「一宮署へ届けてほしい」とメモを託されました。それほど市内は混乱していました。

道中、50メートルある鉄塔が倒れていました。電柱も田んぼに倒れ、1本も残っていませんでした。この辺りは水害よりも、強風被害の方が大きかったと思います。

「逃げなあかん!」に感謝

津市栗真町屋町

服部律子さん

三重県桑名市一色町の平屋に家族5人で住んでいました。海から5キロほど離れ、揖斐川と員弁川に挟まれた場所です。風がすごくて家の扉に板を打ち付けました。夜八時ごろ、いったん静かになり寝ようとした時です。土間の靴が浮きだし、畳がぶかぶかと揺れ、家族でうろうろしていました。

次の瞬間、隣のアパートに住む若い男性が戸をどんどんたたき「逃げなあかん!」と叫びました。男性が板をこじあけ、家族で腰まで水に漬かってアパートの2階に逃げました。どこかで「誰か流されたぞー」と聞こえましたが、怖くて見られません。翌朝、飼い犬が死んでいるのを見て涙が止まりませんでした。

男性が助けてくれなかったら、私たちは生きていなかった。自分のことに精いっぱいでお礼を伝えられませんでしたが、今も感謝は忘れません。

ジャングルジム田んぼに

愛知県一宮市

石黒恵子さん

当時、24歳だった私は1歳4カ月の長男と一宮市の自宅にいました。その年の12月に次男を出産予定で、身重でした。長男を寝かせ、強まる風におびえていると、午後7時ごろに夫が帰宅。「台風がそこまで来てるぞ」と叫び、洋間の窓ガラスに外から板を打ち付けました。

しばらくして風がさらに激しくなり、洋間の屋根が飛び、瓦が300枚ほどはがれました。空が見え、私は台所で長男と傘を差して震えていました。

翌朝、自宅北側の田んぼに、近くの小学校にあったジャングルジムがまるごと突き刺さっていました。よっぽどの強風だったのだと、びっくりしました。

人生であんな怖いことはありませんでした。今は台風が来ると、早々に雨戸を閉めずにはいられない。水や缶詰も常備しています。

天白川堤防 恐ろしい光景

名古屋市緑区

鹿島昭裕さん

名古屋市中村区の三菱重工業岩塚工場に勤め、近くの寮で暮らしていました。寮生でマージャンをしていた午後8時ごろ、風がびゅんびゅん吹いて、ドカン、ドカンと音がしました。屋根の瓦が吹き飛んでいたのです。

台風通過から2日後に出社すると、上司に「出勤していない社員の様子を見てこい」と言われ、名古屋市南区柴田の社員宅にスクーターで向かいました。

国道1号で熱田まで行き、通行止めを避けて天白川の堤防を下ると、水ぶくれした死体が30体ほどあり、恐ろしく感じました。子どもらしい死体もあり、顔がまん丸に膨れていました。

社員宅には泥水の中を歩いてたどり着きました。軒下まで浸水したものの、社員と家族は屋根裏に逃げて無事でした。見舞いの食べ物を渡して帰りました。

近所の堤防決壊 不安な夜

滋賀県長浜市

宮元吉也さん

あの日は両親がバス旅行で出掛けていました。夕方から雨風が激しくなり、小学6年だった私は長浜市内の自宅で祖母と心配しながら待っていました。

両親は午後7時ごろ帰りましたが、道中は父らが倒木を取り除いて進み、橋も流されたので遠回りしてたどり着いたそうです。

両親が帰ってすぐに、近くの草野川の堤防が決壊。ゴーッという音で水が迫ってきたのが分かりました。1学年年下のいとこが川の近くに住んでいて、救助した父は「水が腰まで来ている」と言っていました。

自宅は床下浸水で済みましたが、その晩は不安で仕方なかったです。翌朝には水は引いていて、各家庭の庭で飼っていた食用のコイが、そこら中の水たまりや水路で浮いたり跳ねたりしていたのを覚えています。

雨戸破って瓦が飛び込む

岐阜県大垣市

上田敏さん

当時26歳の新婚で、大垣市東町の市営住宅に妻と暮らしていました。風が強まってきた夕方、ガラス戸から外を見ると、近くの家の屋根瓦が1枚、風にあおられてふわふわと浮いているのが見えました。

「これは危ない」と急いで雨戸を閉め、畳に腰を下ろした途端、「バリン」という音とともに、30センチ四方くらいの瓦が、雨戸とガラス戸を破って飛び込んできました。震える私たちの目の前を転がり、ふすまを破ってそのまま隣の部屋へ。ガラス戸の穴から風が吹き込むので、畳を剥がして穴に当て、妻と2人で押さえました。風が一段落して隣の部屋を見に行くと、瓦は割れずに転がったままでした。

瓦が雨戸とガラス戸、ふすまを突き破ったというのは、風の力に他なりません。自然の恐ろしさを忘れることはできません。

浸水の職場 復旧まで1年

愛知県半田市

竹内勇さん

当時は市内の国鉄(現JR)乙川駅前にあった設計事務所で働いていました。台風の日は仕事で遅くなり、自宅に帰れなくなって事務所で被災しました。建物は木造2階建てだったのですが、浸水が始まったので2階へ逃げました。平屋建てに住む近所の人たちも数人が避難してきました。

水は数時間で引き、命は助かりましたが、床上2メートルの浸水に遭った事務所はひどい状態。毎日ぬれた畳や書類を干す大仕事でした。事務所が普通の状態に戻るのに1年がかかりました。

数日後、市と県から委託を受けて災害調査員として市内全域を回りました。各家庭の支援策を決めるために住宅の被災状況を調べる仕事です。1日に10~15軒を回りましたが、作業の時は「みんな大変だから助け合って頑張ろう」と励まし合いました。

下宿先 胸まで漬かった水

愛知県豊田市

糟谷清治さん

当時19歳の私は、名古屋市瑞穂区堀田通の1戸建ての2階に下宿していました。午後6時半ごろから雨が激しくなり、屋根瓦が飛ばされて雨漏りが始まりました。

近くの川の護岸が決壊して家に水が入ってきたので、1階に下り、畳や家具がぬれないよう積み上げていると停電に。大家さんがオートバイのライトをつけましたが、水に漬かり、真っ暗になりました。

水位がどんどん上がり、机の上に立ちましたが、胸の辺りまで漬かりました。水の中での恐怖は今も忘れません。午後11時ごろに雨がやみ、きれいな星が見えました。朝方には水が引きましたが、玄関には40センチほど残っていました。

大家さんが「親戚の人が持ってきてくれた」と塩だけで握ったおにぎりを一つくれました。涙が出るほどうれしかったです。

壁押さえ家を守った両親

愛知県蒲郡市

鈴木照夫さん

9月26日の夕方、蒲郡市は雨がまだ降っていませんでした。でも、海から強烈な風が吹き、風に向かって自転車をこいでもまったく進めず、逆に背中で風を受けると自然と進んでいきました。

当時、小学4年生の私は、これから来る台風の恐ろしさなど知るよしもなく、無邪気に自転車を乗り回していました。

家に帰ると、父が台風に備えて雨戸に板を打ち付けていました。夜、自宅2階で寝ていると家全体が風でぐらぐらと揺れ、「今度の台風は今までと違う」と感じました。真夜中にふと目が覚めると、家の外壁が自宅の内側へと曲がってきていました。両親は、それを必死に一晩中押さえていました。

そうやって家を守ってくれた両親はともに他界し、もういません。今度は私が家を守っていく番です。

母子抱き合い逝った友人

愛知県武豊町

石野惠子さん

当時、私は半田中学校(愛知県半田市)の3年生でした。一斉下校した時に、小学校から仲良しだった同級生と「さようなら」と言って別れました。これが最後の会話になるとは、思ってもいませんでした。

台風が近づいてくると、強い風雨で自宅は今にも崩れそうで、家族全員で壁を押さえました。玄関から水が入り、床上浸水。手分けして畳を上げていると、風雨がおさまってきたので、2階へ上がり一晩過ごしました。

自分は難を逃れましたが堤防が壊れ、同級生が住んでいた一帯は、波にすっぽりのまれてしまいました。母子家庭だったその友人は、お母さんと抱き合って亡くなったと聞きました。

その後は友人の死で頭が真っ白。授業が再開しても上の空でした。今でも9月26日になると、亡くなった方々を思い出します。

ロープがつながれ命拾い

愛知県春日井市

遠山清志さん

当日は夕方からどんよりとした真っ黒な空に変わっていきました。小学生だった私は、名古屋市南区西又兵ヱ町の自宅近くを流れる川を友人と見に行きましたが、激しい濁流となっていました。

午後6時ごろから雨が激しくなり、近所から「堤防が決壊したぞ」と叫ぶ声が聞こえました。両親や弟妹と共に、通っていた小学校の校舎まで急いで避難しました。膝元まで水につかり、雨風も強かったため、なかなか前に進めなかったのを覚えています。

やっとの思いでたどり着きましたが、水は平屋の校舎内まで流れ込んできました。大人の腰下まで水位が増してきたとき、誰かが窓を破って隣の校舎まで泳ぎ、2階にロープをつないでくれました。一人ずつロープを伝って2階へ避難し、助かりました。

窓の外 人や家が流されて

名古屋市中村区

後藤暁子さん

被災当時は9歳。三重県木曽岬町に住んでいました。午後8時すぎ、木曽川の堤防が切れ、自宅の土間に水が入ってきて履物が浮き始めました。私と両親、兄弟の5人で近くのお寺に逃げることに。歩いているうちに膝くらいまで水が来て、普段は5分で行けるところが20分かかりました。

お寺の2階に急いで上がった瞬間、ちょうど1階の天井裏まで水が来ました。窓から外を見ると家屋や人が流れていくのが見えました。うめき声も聞こえ、とにかく怖かった。一晩を過ごして自宅に戻ると、家は柱だけになっていました。

この被災経験は、夫にも子どもたちにも話したことはありません。でも自然災害の恐ろしさを伝えねばと口を開きました。大切なのは逃げること。命があれば道は開けます。

父は川へ 母子で家守った

愛知県豊川市

川上礼子さん

当時、愛知県碧南市の棚尾地区に住んでいました。河川土木担当の県職員だった父は、矢作川の現場に出ていて不在。高校3年の私を筆頭に、3男2女の5人きょうだいと母で家にいました。

夜になり風が強まると、寝室で雨漏りが始まって、私は妹や弟が眠っている布団を起こさないよう、そーっと隣の部屋に引きずって移し、畳を上げました。

雨風は強くなるばかりで、雨戸で覆っているはずのガラス戸が今にも壊れるかと思うほどになり、夢中で戸を押さえ付けました。ふと気が付くと、すぐ下の弟も私の横で戸を押さえ付けていました。風音は、ゴォーッというのを通り越して、カァーッという気味の悪いものにまでなりました。

翌日、静かになった外に出てみると、風をまともに受けた隣家は、柱だけが残っていました。

当時4歳 強風の記憶鮮明

名古屋市中村区

宇野和子さん

夜中にすさまじい風の音で目が覚めました。まだ幼い四歳の時のことです。父は仕事で外出しており、中村公園に近いわが家には母と祖母、私の3人がいました。しかし、布団から起きるといつも添い寝してくれている母が近くにいません。捜そうと一階に降りると「こっちに来てはだめ」ときつく叱られました。

後から聞いた話ですが、当時自宅に雨戸はなく、母と祖母は畳を上げてガラス戸を支え、必死に風に対抗していたそうです。幸い自宅が水に漬かることはなかったのですが、あの強風は鮮明に覚えています。

私は地元の学童保育などで、映画「伊勢湾台風物語」の上映を数年前から続けてきました。自然災害の恐ろしさを子どもたちに伝えるために、アニメを使うのは効果的だと思います。

首まで水 弟を肩車し避難

愛知県知多市

野村善晴さん

当時は高校1年の15歳で、名古屋市熱田区五番町の平屋に住んでいました。午後3時ごろ、市電で帰宅したときは青空でしたが、夕方に風雨が強くなり、早めの夕食を済ませて家族6人でいました。次第に瓦が飛ぶ音がして、少し変なにおいがしたので玄関を見ると靴やげたが浮いていて、窓を開けて外を見ると、一面が水になっていました。

5歳の弟を肩車して、首まで水に漬かりながら、道を隔てた鉄工所の2階に上がらせてもらいました。風が収まり、外を見ようとすると、逃げるときに眼鏡をどこかに落としたようで、よく見えませんでした。

自宅は1カ月ほど床下浸水が続きました。学校は名古屋市昭和区の八事にあり、校舎からはトラックが白木の棺おけを何台も乗せて火葬場に運ぶ様子が見えました。今も光景が頭に残っています。

着の身着のまま 屋根に人

名古屋市熱田区

青木美智子さん

当時の住まいは名古屋市南区道徳で、電話の交換手をしていました。台風当日はラジオを聞いていましたが、雨風が強くなり、停電して真っ暗闇に。地震のように家が揺れ、屋根瓦が飛び、全身に痛いほどの勢いで水が落ちてきました。父と姉は畳で玄関の戸を押さえていましたが、父が「水が来た。2階に逃げろ!」と叫ぶと同時に、腰の辺りまで水が来ました。あっぷあっぷしながら2階へ上がりました。家族全員、無事でした。

翌日は一面の泥水で、着の身着のままの人が屋根でぼうぜんとしていました。ヘリコプターで届いたおにぎりを食べました。1週間後に職場の人がボートで迎えに来て、私は仕事場で寝泊まりすることになりました。七里の渡しで下りたとたん、人々が普段のまま動いていました。同じ名古屋でこんなに差があるのかと思いました。

6年前に被害 早めの避難

愛知県蒲郡市

道下利雄さん

当時、兄とこの近くで繊維工場をやっていました。ラジオで台風の進路を確認して「これはあかんわい」ということで、兄と妻の兄と3人で、被害を最小限にするため工場内を整理しました。

日が暮れて、避難しようと外へ出ると、海からの水が低い所へ勢いよく流れて道に穴が開いていました。塀に上がり、3人の体をロープで結びました。

下の方を海水がゴーゴーと流れる中、震える足で工場の屋根へ上がり、のこぎり屋根の窓を割って中へ。床より高いモーター台の隅で一晩、真っ暗な工場内で水に浮いた物がガチャガチャと音を立てるのを聞きながら過ごしました。

その6年前に大きな被害を出した台風を経験していたので、明るいうちに家族を高台へ避難させたのは良かった。教訓を知るということが大事です。

学生寮2階 ペチャンコに

岐阜県中津川市

梶田鈴枝さん

愛知県春日井市にあった愛知学芸大(現愛知教育大)の学生寮にいました。夜になって突然、1階の部屋で期末テストの勉強をしていた友人と、ドカーンという衝撃音と地響きではじき飛ばされ、抱き合って恐怖に震えました。

開いていた窓から強風が吹き込み、2階がペチャンコにつぶれてしまったのです。真っ暗な中、懐中電灯を頼りに隣の男子寮に避難し、おびえながら一夜を過ごしました。戦時中の兵器工場だった建物で、はりが太かったため1階まで倒壊しなかったと聞きました。

翌朝は抜けるような青空でした。ひざ上まで水がたまり、1階だけになってしまった寮を、複雑な気持ちで眺めました。崩れ落ちていた柱や木材を見ながら、十数人の教師の卵が命拾いしたことを、ついこの間のように思い出します。

牛や馬が次々流れていった

名古屋市昭和区

佐藤幸男さん

当時の実家は、愛知県弥富町(現弥富市)で雑貨商を営んでいました。風の強さは経験したことがないくらい。夜中に風がやみ、近所で集まって「良かったね」と言っていた時に、「堤防が切れた」という消防団の人の声を聞きました。

病身の父を負ぶい、母と高さがある木曽川の堤防を目指して歩きました。途中で近所の人に父をスクーターに乗せてもらい、高台の民家にたどり着きました。

翌日は台風一過。朝日が昇ってくると、水没した町の屋根の上で助けを求める人が見えました。木曽川では牛や馬が浮かび、次々に流れていきました。

川辺には6人の遺体が打ち上げられていました。父親を先頭に子ども2人、おじいさん、おばあさん、母親がひもでつながれていました。はぐれないようにしたんだろう。思わず手を合わせました。

列車から 妻に連絡できず

滋賀県彦根市

雨森昭夫さん

東北へ出張した帰りのことでした。前夜、東北線盛岡駅から寝台列車に乗り、翌朝に上野駅へ着きました。私は、この年の4月に結婚したばかり。東京駅から東海道線の急行に乗り換え、夜には妻の待つわが家へ帰れる予定でした。

台風の襲来は知らされていましたが、列車は定刻通り発車しました。静岡県に入ったあたりで遅れだし、浜松駅に着いたところで完全に止まりました。2時間たっても動きません。外は大荒れの天候で、窓をたたきつけるような強い雨が降っていました。

食べ物がほしくなり、駅の待合室にあった売店まで行こうにも、いつ列車が動くか分からず席を離れられません。車内で売っていたビールでしのぎました。携帯電話が普及するずっと前の話です。家族に連絡も取れず、心配をかけました。

民家に避難、床抜けそうに

名古屋市南区

小林勝治さん

高校1年生の時でした。やけに蒸し暑い日だったことを覚えています。家族で夕食後、居間でラジオを聞きながら台風が通り過ぎるのを待っていました。外の様子を見ようと玄関に行った父が「すぐに逃げるぞ!」と叫び、ほぼ同時に水が来て畳が浮き始めました。天井を押し上げ、家族全員が屋根裏へ上がったときは、1階はほぼ水に漬かっていました。

隣の2階建てアパートで一夜を明かした翌朝は、一面が水だらけ。向かいの家の2階に避難させてもらいましたが、隣近所の家族が集まって床が抜けそうでした。私の地域は1カ月も水が引かなかったと記憶しています。

ようやく水が引き自宅を確認すると、幸い柱は残っていました。近くに貯木場が2つありましたが、材木は会社の建物がとりでとなり、ほとんど流れ込んでこなかったのが幸いでした。

うずまく濁流 窓外は湖に

愛知県春日井市

若井民代さん

あの日、空は青く晴れ渡っていました。愛知県の旧弥富町の弥生小学校6年生だった私は、台風が来るなんて信じられませんでした。

ところが午後になって空模様が一変。とにかく風がひどく、はがれた瓦が空を舞い、割れる音が聞こえていました。風圧で家の中がポンポンに膨らみ、一瞬のうちに寝室の天井が崩れてしまいました。

強風の中はいずりながら慌てて父の友人宅に避難し、安心したのもつかの間。「水が来たぞー」という外の叫び声とともに玄関のげたがフアっと浮き上がり、うずまく濁流が押し寄せました。2階に駆け上がり、窓の外をのぞくと、一面が湖になっていました。

当時はラジオしか情報源がなかったこともあり、テレビなどで情報を得て、早めに次の行動を考える大切さが身に染みています。

近くても遠かった隣の家

愛知県常滑市

伊奈紀代美さん

台風の日の夜9時ごろ、名古屋港から目と鼻の先にある自宅の玄関が水に漬かりました。父が、母と小学2年だった私、弟の3人と避難すると決めました。

母が私と弟の頭に座布団をかぶせたころには水が床上に押し寄せ、畳がぷかぷかと浮きだし、瞬く間に母の胸の高さに。自宅に2階がなく、隣家の2階を目指すことにしました。

父が弟を、母が私を背負って外に出ましたが、ふだんならあっという間の隣家までの距離が遠いこと、遠いこと。流れてくる材木やドラム缶をかき分けて階段を上り、2階に着いた時には心底ほっとしました。

翌朝、水が引き、外に出た時に見た抜けるような青空は、あの夜の経験とともにいまでも忘れることができません。毎年9月26日が近づくたびに、母らとあの日を語り合います。

戸板に飛び乗り命助かる

愛知県西尾市

古沢孝行さん

伊勢湾台風当時は22歳。西尾市平坂町で木材加工の仕事をしていました。台風が近づいてきたため、その日の仕事は午前中で終わり。私は近くの自宅に戻りましたが、風雨が激しくなった夕方に、仕事場の道具を片付けに行ってしまいました。親方からもらったノミやカンナなどが心配だったんです。

坂を下るにつれて水が深くなり、仕事場への角を曲がった時、水面が首近く。高潮だったんでしょう。流されそうになった時、近くにあった戸板に思わず飛び乗りました。やっとの思いで仕事場にたどり着き2階の親方宅で1人で震えながら夜を明かしました。

戸板がなければ、近くの小川に流されていたかも。仕事道具よりも命が大切。台風の時には、外出せずに身を守らなきゃならないと教えられました。

屋根裏でギギー 死の恐怖

愛知県稲沢市

佐藤正光さん

当時は家族9人で名古屋市港区南陽町に住み、私は南陽中の3年生でした。午前中で授業を終え、先生から「どえらい台風が近づいてきとる」と言われ、急いで家に帰りました。

暗くなるころに停電。ロウソクの火を頼りに夕食を済ませ、自室で寝転んで本を読んでいた時、水で畳が浮かんできました。同時に、父親の大声が響きました。「水だ。屋根裏に上がれ!」。屋根裏にいても強い風が吹くたびにギギーと音を立て、死の恐怖に一睡もできませんでした。

家族は全員無事でしたが、東隣2軒の家族は、100メートルほど離れた高台を目指して家を飛び出し、5人が犠牲になりました。翌朝、周囲の景色は一変していました。今もちょっとした揺れで記憶がよみがえり、体が違和感を覚えます。

瓦をつかみ 夜通し耐えた

名古屋市緑区

中村博子さん

当時は名古屋市南区の宝小の2年生で、両親と弟、妹、祖母の6人家族でした。自宅で寝付けずにいると、突然畳が浮いてきました。外に出ると、道路は川のようになっていて、胸の辺りまで水に漬かりました。

父は「自宅にいる」と言う祖母を説得し、母は3歳の妹を帯ひもで体にくくりつけ、近くにあった屋根の高い家に避難しました。瓦につかまりましたが、ずぶぬれのため寒さで体はがたがたと震えます。睡魔にも襲われましたが、父が「寝たら落ちて死ぬぞ」とたたいて起こしてくれました。

家族全員無事に朝を迎えられましたが、自宅は壁がはがれ、たんすも全部水に漬かってしまいました。避難先を転々とし、新潟県の母の実家にも1カ月半ほど身を寄せました。11月下旬に学校に戻ると、級友7人が亡くなっていました。

母の機転 手引かれ避難

愛知県みよし市

沖林定恵さん

私は当時小学6年生で、あの日は母と中学3年の兄、4歳の妹と名古屋市南区にある平屋の自宅にいました。だんだん風が強くなり、電気も消えました

すると外から「おーい」と叫ぶ声が。母が外を見ると、大量の水が流れていました。新築でまだ住んでいない裏の2階建て住宅に逃げようと、慌てて米やはいを包んだ風呂敷を持ち、母に手を引かれて外へ出ましたが、既に倒壊していました。その隣の家の雨戸をたたき、「助けてください」と叫びました

水は胸から腰の高さくらい。ご主人が「どうぞ中へ」と雨戸を開けてくれ、浮き上がった畳をかき分けて2階に上がりました。

母が手をつないでくれた安心感か、不思議と恐怖はありませんでした。母の一瞬の判断と、雨戸を開けてくれたご主人のおかげで、今があるのだと思います

小さな息子 恐怖で泣かず

岐阜県土岐市

吉村裕子さん

間もなく2歳になる息子と、国鉄(当時)職員の夫の3人で名古屋市港区の市営住宅に住んでいました。夫は夜勤予定でしたが、台風の進路が気になると仕事を休んでくれました。ラジオを聞いていると雨風が強くなり、近所の老夫婦が「大変だ」と部屋に飛び込んできました。子どもを背負い主人に手を引かれ、川のようになった道を小学校に避難しました。

教室は人でびっしり。座れる場所はなく一晩中立っていました。背中の息子は恐怖のためか、泣き声一つあげませんでした。

翌日、用意されたボートで家に戻ると周囲も部屋の中も水浸し。お釜が水に浮いていて、昨晩炊いたご飯は無事。台風に備えて炊いておいて良かったと感じ、おにぎりにして食べました。

来年7回忌を迎える主人に、改めて感謝の念でいっぱいです。

傾いた本堂 見る影もなく

岐阜県羽島市

森崎敬玉さん

当時は、住職だった父の跡を継いで3年目ぐらい。市内の寺の敷地に、目の不自由な母、妹と暮らしていました。ラジオで台風情報を聞いていると、わが家にとって最悪のコースでした。

日暮れと同時に風雨が強くなり、本堂は屋根瓦が舞い落ち、至る所で漏水が始まりました。必死になって押さえていた戸が風で吹き飛び、本堂の中も風雨でもうめちゃくちゃでした。

母が「安全な場所に避難しなさい」と言ったことを受け、私たちは近くの建物に避難しました。長い時間、暗闇の中で身を寄せ合って、風が去るのを待ちました。

朝を迎え、本堂を見に行くと傾いていて、見る影もありませんでした。自然災害の恐ろしさをつくづく知りました。今も台風シーズンになると、心が落ち着きません。

明るかった教え子 犠牲に

愛知県犬山市

安田典子さん

名古屋市南区明治のアパートの1階で暮らしていました。「水が来たぞ!」と大声が聞こえ、2階の部屋に逃げました。「建物ごと流されるのでは」と死の不安を感じました。外を見ると魚が跳ねていて、海水の逆流を知りました。

当時熱田区の高蔵女子商業高校・高蔵中学(現名古屋経済大高蔵高・中)に勤め、家を失った生徒の面倒を見る役目を担いました。貸布団を敷き詰めた家庭科室に十数人の生徒らが泊まっていました。昼間は高校生と近くの寺へ炊き出し。みんな自分のことは二の次です。

数日後、台風上陸の直前の授業で国語を教えた中一の生徒が亡くなったと聞かされました。流木に打たれた体はアザだらけだったそうです。教師にとって、教え子を失うのは胸のつぶれるようなこと。背の高い明るい生徒でした。今でも顔を思い出します。